1998/4 No.11 日本都市計画学会 関西支部だより

視点
兵庫津の散策

井上 慶一 兵庫津の文化を育てる会会長


 JR兵庫駅の東南部、いわゆる兵庫津と総称される一帯は、古名は「大輪田の泊」と呼ばれ天然の良港として栄えた歴史を持っている。遠く平清盛が情熱を傾注した港の繁栄も、兵庫城の城下町としての繁栄の名残も今は無く、また神戸の中心部が東へ東へと推移してしまった現況ではあるがその歴史の足跡は町の其処かしこに残っている。

 兵庫駅の東すぐ近くに、地元の人たちからは「柳原のえべっさん」と親しく呼ばれている蛭子神社があり、この神社の向いにある大黒さんを祀る福海寺とともに一月九日〜十一日の戎まつりの時には参道に沢山の露天が並び大勢の参拝者でにぎわう。またこの地には「西国街道兵庫柳原惣門跡」と刻まれた石碑と案内板が建てられていて、この地が交通の要衝だった事を伝えている。

 蛭子神社と福海寺の間の旧西国街道をしばらく東に歩いて左に折れると左手に「福厳寺」がある。その参道には後醍醐天皇の行在所だった歴史を示す大きな標柱があり、流されていた隠岐から脱出して京都に還幸される際にこの寺に滞在した事を伝えている。

 蛭子神社の玉垣沿いに南へ行き、阪神高速をくぐると菅原道真公ゆかりの「柳原天神社」があり、さらに東へ行くと近年神戸市が遊歩道に整備した「兵庫津の道」に至る。信号を左折するとすぐに「能福寺」がある。この寺には戦前奈良、鎌倉と並んで三大大仏と称された兵庫大仏がある。平成に至り再建され境内にその偉容を誇っている。

 地元では町おこし事業として毎年夏にこの道を利用して、「兵庫津の道まつり」を開催し、地域の子供たちは平家の公達にあやかり男子は子供武者、女子は姫君に扮し津の道をパレードし、道路両側には地域の各自治会が手づくりの出店を出し、また仮設舞台では中学校吹奏学部の音楽演奏、素人マジック、舞踊、演芸等盛り沢山の出演があり、最後には阿波踊りで盛り上がり、大勢の人たちが参加し夏の一夜を楽しんでいる。秋には兵庫の大恩人平清盛公の遺徳を偲び清盛塚前で平清盛公の遺徳を偲ぶ催しを行い、同時に能福寺講堂で兵庫津に関わる記念講演会を行っている。この日には併せて幕末の慶応四年神戸三宮神社前で起こった神戸事件の責任を取って兵庫南仲町にあった永福寺(戦災で焼失)に於いて各国外交官の前で切腹し神戸を第二の香港、マカオになることを防いだ神戸の恩人「瀧善三郎正信」の遺徳を偲ぶ慰霊の行事が各地から大勢の事件関係者や縁故の参列のもと能福寺境内の「瀧善三郎正信碑」の前で毎年盛大に行われている。

 さらに能福寺の周辺には、平清盛公が大輪田の泊を築く際人柱になった松王を祀る「来迎寺」、江戸時代兵庫の町を選挙で選ばれた名主が町政を見ていた役所跡の「岡方惣会所跡」等がある。

 来迎寺に面した新川運河に沿って南へ行くと兵庫プロムナードに出る。この運河は明治になって船便の便利のため接続する兵庫運河とともに掘削され更に戦後拡張され、その広さ、長さは日本一と言われている。ここは織田信長が池田信輝に命じて築城した兵庫城があったところである。兵庫城には江戸時代には大坂城代の勤番所が、明治初期には兵庫県庁が設置されたが、運河の開削により取り壊された。近く兵庫県はその発祥の地を記録するため、運河に面した緑地に「兵庫県庁発祥の地」の記念碑を建立することとなった。

 運河に架かる大輪田橋周辺には、神戸大空襲による火災に追われ焼死した市民を慰めるために地元の有志が建立した「戦災供養塔」、楠木正成公の首実検をした際首を置いた大石がある「阿弥陀寺」や時宗の開祖一遍上人の墓所がある「真光寺」などがある。また、清盛塚十三重の塔、琵琶塚もあり、清盛公の遣徳を偲んだ銅像も建てられている。

 ここから津の道を南へ向かうと道路沿いに薬仙寺、和田神社、三石神社などの歴史の足跡があり、帰路には日本一短い和田岬線に乗って兵庫駅までの旅路を楽しむのもまた趣がある。一度兵庫津を散策して時空を遡ったまちづくりに思いを馳せて見てはいかがでしょうか。




前ページ


11号・表紙


次ページ

Copyright(C)1999 (社)日本都市計画学会関西支部