1998/4 No.11 日本都市計画学会 関西支部だより

視点
区画整理による地割りの継承
〜大阪市域における土地区画整理事業のまちの成熟への関わり〜

渡瀬  誠 大阪市建設局


 大阪市のまちづくりは、古くは豊臣秀吉の時代より行われてきており、現在では市域の半分以上が何らかの面整備事業がなされている。こうしたまちの1つ1つがそれぞれ固有の歴史を刻み変化しながら現在に至っており、今日まちはそれぞれにそこに住む人や訪れる人などから様々な評価を受けている。
 一方、土地区画整理事業によるまちづくりは、時間がかかる、家屋の移転によりまちが破壊されるなどの批判があるが、裏返せば地区の特性に合わせた緩やかなまたは大胆な事業の設定が様々に可能ということであり、このことが土地区画整理事業がまちづくりの基幹事業として広く用いられてきた理由の1つである。
 こうした状況の下、ここでは大阪市内での土地区画整理事業地区を例にまちの時間的な成熟過程を考えてみたい。
 
(1) 地区周辺の歴史的環境がまちの成熟に影響を与えた
『四天王寺周辺』
 大阪市では第2次世界大戦により市域の27%が被災し、また全半焼壊は約31万戸に達した。こうした戦災からの復興を目的として復興土地区画整理事業が被災地域を中心に市域で広く行われたが、いわゆる焼け残り地区や被災地域でも事業効果等の理由により区画整理の事業区域から除外された地区があり、その後のまちの成熟には事業施行地区と事業未施行地区とが共存し影響を及ぼしあうこととなった地域が多数存在している。
 こうした地区として天王寺区の四天王寺周辺を例に考えてみる。四天王寺は上町台地に飛鳥時代の推古元年(593)、聖徳太子が日本最初の官寺として創建した寺院であり、四天王寺自体は戦災により被災したものの土地区画整理事業としては地区外となっており、その南北及び東部において天王寺地区戦災復興土地区画整理事業が施行されている1)。事業は昭和22〜27年にかけ数工区に分けそれぞれはじめられ、その工区のほとんどが昭和35〜41年に、一部権利関係が輻輳していた工区が平成8年にそれぞれ換地処分された。
 一般に、大阪市域は東京などと比べ地形的に平坦で、また道路を計画する上で障害となるような大きな建築物等がないため東西南北に直線的な道路線形となっているが、四天王寺周辺は上町台地と呼ばれる地形と四天王寺の位置的な影響から、例えば四天王寺南部の庚申堂工区の事業計画を見ると、『街廊は出来るだけ矩形に近い形状とし…(中略)…土地の状況に応じて適応するよう定めた。但し、土地の高低及特殊建築物等を考慮したため幾分不規則な街廊となったことは止むを得ない。…』と、当時としては不本意な道路線形であったが、現在ではこうした不規則な道路線形と地形的な影響が重なり合い、四天王寺を中心とした大阪市一般のまちなみとは異なる景観が創り出されている。
 また四天王寺北部にあたる、現在の千日前通り、谷町筋、大阪女子学園に概ね囲まれた生玉寺町では、当時この付近一帯が被災したものの、上町台地上部において南北に長く土地区画整理事業の施行地区を設定し生玉前工区として整備を行った。その結果現在は地区内外にわたり東西に複数ある急峻な坂道と、同じ寺町でありながら上町台地上下における地区内外の異なる雰囲気等が複合的に作用しあって独特な景観を創造している。
 
(2) 地区周辺の環境の変化がまちの変化に影響を与えた
『大阪駅前地区』
 大阪駅前地区は、土地区画整理事業の立体換地手法(土地を建物の床と交換する手法)から派生した市街地改造法により大阪駅前第1〜4ビルとして整備された地区である。大阪駅前といった好立地を背景として戦後の闇市から発展した地区であるが、大阪駅という大阪市を代表する駅前にふさわしいまちづくりを目的に事業が施行された。
 事業は昭和36年に都市計画決定が行われ、その後まず第1ビルの事業化が行われるが、この地区は当初土地区画整理事業により整備を行おうとしたところ権利関係の輻輳等から地元の事業に対する賛同が得られず、また地区の好立地性からも土地利用の高度化とそれに伴う借家権を含むすべての権利のビル床への変換の必要性が事業化の背景にあった。
 事業化に際しては、地区内に相当数あった繊維関係店舗・事務所の取り扱いが課題となったが、現在の新大阪センイシティへ集団移転を行うことにより駅前に不必要な搬入車などの大型業務車の発生・集中を未然に防ぎ、また商業・業務系の用途も駅前立地を念頭にある程度純化された。
 事業の際の床変換にあたっては、等価交換を原則としながらも闇市から発展した零細な土地利用の状況から一部等床交換的な考えも取り入れ、さらに床配置にあたっては、例えば飲食関係は地下1〜2階へ配置するなど用途別床配置を行っており2)、現在の大阪駅前ビル地下階の景観のもととなっている。
 この大阪駅前第1ビルをはじめとする大阪駅前地区の発展にとって、大阪駅前地下街(ダイヤモンド地下街)計画と国鉄片福連絡線計画、さらには地区周辺のビル建設等の与える影響は大きく、これら計画の早期実現がビル入居者などから望まれたが、周辺のビル建設は進んでいくものの、時流により地下街計画と国鉄新線計画は棚上げにされ、その後しばらく大阪駅前地区にとっては冬の時代が訪れることになる。この冬の時代の間に駅前ビルの床用途は駅周辺型からオフィス周辺型へ変化したが、地下街計画がディアモール大阪として、国鉄新線計画がJR西日本東西線としてそれぞれ開業した最近では、前述の地下飲食階も人の流れがかなり多くなり、床の区画割りの小ささも手伝って一種大阪らしい雑多なにぎわいが出てきた地区である。
 
(3) 地区権利者がまちの成熟を養う
『三国駅周辺地区』
 三国駅周辺地区は昭和60年に土地区画整理事業の都市計画決定が行われた住商工が混在した地区である。この事業は阪急宝塚線の線形改良を伴い、地区内の全戸を移転するといった全面クリアランス型の事業であったことから、権利者の間に将来のまちに対する漠然とした不安があった。このため権利者と行政とがまちづくりにおいて対立する時期が当初あったが、こうした対立を乗り越えて権利者と行政とが共働してまちづくりを行うようになった地区である。
 具体には事業当初、企業側権利者を中心とした土地区画整理審議会の住民側権利者からのリコール、そして審議会委員の再選挙を経て、その後住民側代表の審議会会長を中心とした『三国駅周辺地区のびゆくまち21世紀委員会』と行政との間においてまちづくりについての話し合いが行われることとなった。委員会では地区全域に偏りなく、また住民・企業の分け隔てなく委員が選出され、行政はコンピュータグラフィックスをはじめとする当時先進的な説明手法を用いることで議論の進捗を試みた。その結果、権利者側のまちづくりとしては大阪市では初めて地区計画制度の導入により既成市街地では全国的にも珍しく地区全域にわたり建築後退線を設け、さらには用途規制を行うなど駅前商業と中低層の居住との共存をめざし、また行政側のまちづくりとしては道路等の公共施設のグレードアップや権利者の意見を反映した駅前広場や公園の建設を行うべく現在施行中である。この事業は、密集市街地で事業展開を行っている淡路駅周辺地区などの近年の大阪市内における土地区画整理事業での公民協働のまちづくりスキームにも影響を与えた事業でもある。
 土地区画整理事業は、時間的にも空間的にも様々なまちづくりに対する要求に対応可能な基幹的な事業として現在に至っており、今日挙げた地区例のようにまちの成熟といった観点からもこれまで、まちが遭遇する様々な出来事を取り込みながらまちを育んできた。今後も市民とともに時間軸のうねりの中での社会環境等の変化に柔軟に対応しながらまちづくりを行い続けることにより、個性あるまちの成熟に土地区画整理事業が関わり続けることができると考えるものである。

<参考文献>
1)甦るわが街−天王寺地区戦災復興土地区画整理事業− 1997.3大阪市建設局
2)大阪駅前市街地改造事業誌 1985.3大阪市都市整備局




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