(公社)日本都市計画学会関西支部
大規模災害からの都市復興の再検証と知識の継承専門委員会「中間報告会」

次世代への復興経験の継承を考える-「過去」から「未来」へ-

趣旨

日本都市計画学会関西支部では、阪神・淡路大震災25周年事業として、過去の復興教訓を検証・継承し、次の大災害が起きた際の復興の進め方について考えるため、若手の研究者や行政職員を中心とした委員会「大規模災害からの都市復興の再検証と知識の継承専門委員会」(復興検証・知識継承委員会)を設置し、今年度から活動をはじめました。 2020年1月17日で阪神・淡路大震災の発生から25周年を迎えます。阪神・淡路大震災の都市復興に関わった行政・民間の技術者の多くも退職し、その経験の継承が多くの組織で課題となっています。南海トラフ地震や上町断層帯地震といった今後起こり得る災害からの復興に活かすためにも、過去の災害からの復興経験を、災害を経験していない世代へどのように継承すべきか考える必要があります。  復興検証・知識継承委員会の中間報告会として、1995年阪神・淡路大震災、2004年新潟県中越地震、2011年東日本大震災の復興事業に尽力された実務者の方を講師にお招きし、過去の災害からの復興経験がどのように活かされたか話題提供いただくとともに、過去の復興経験を未来へ継承するための方策について参加者の方々とともに考える機会とします。

プログラム

13:30 受付開始
14:00 趣旨説明と委員会の紹介
関西大学社会全学部 教授 越山健治(復興検証・知識継承特別委員会委員長)
14:20 話題提供① 阪神・淡路大震災の復興経験から中越地震の復興へ
渡辺斉氏(グリーンシグマ 技術顧問・戦略アドバイザー、元・長岡市復興管理監)
14:50 研究会メンバーとのディスカッション
15:05 話題提供② 阪神・淡路大震災の復興経験から東日本大震災の復興へ
畑文隆氏(西宮市土木局道路部 道路補修課長、元:南三陸町復興事業推進課まちづくり推進室長)
15:35 研究会メンバーとのディスカッション
15:50 話題提供③ 中越地震の復興経験から東日本大震災の復興へ
石塚直樹氏(一般社団法人みやぎ連携復興センター代表理事、元・中越防災安   全推進機構)
16:20 研究会メンバーとのディスカッション
16:35 会場全体を交えてのディスカッション・質疑応答
16:55 講評
兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科 准教授 紅谷昇平
(復興検証・知識継承特別委員会副委員長)

開催要領

2019年3月21日(木)14:00-17:00
◇場 所:神戸市立こうべまちづくり会館2階ホール
◇参加費:無料
◇定 員:40名(先着順)
◇申 込:不要。会場へ直接お越しください。
◇共 催:KOBE復興大2018

インタビュー調査風景
▲会場の様子

「中間報告会」議事録

趣旨説明と委員会の紹介
(復興検証・知識継承特別委員会委員長)

インタビュー調査風景
趣旨説明と委員会の紹介 越山健治氏

ただいま御紹介いただきました。委員長の越山と申します。よろしくお願いいたします。 この委員会、タイトルにありますように大規模災害からの都市復興の再検証と知識の継承を専門委員会という名前がついております。この委員会の説明を簡単にさせていただきます。日本都市計画学会は、日本の中でも都市計画に関するさまざまな専門家が集まっている学会です。この学会、24年前の阪神淡路大震災のときの関西支部や学会全体の活動とて、復興に関する調査など、その研究成果に関して力を発揮したと思います。様々な活動ができて、いろんな調査をして、いろんな知識、情報が残されているという役割を担ったと思います。そのときは、私まだ学生でしたが、その頃に現役だった方々が非常に活発な活動をしていたなというのを、私が学生ながら見ていたというのが、当時の状況になります。 あれから24年たった現在、その当時の知識や情報は現在の都市計画を担っている世代にどの程度伝わっているのか、もしくはどう伝わっているのか、そもそも伝わっていないのかから始まり、そもそも伝わるって何だという話になってきます。都市計画の分野でいうと都市計画に関する仕事自体は毎日あるわけです。特に都市計画という分野は、最近だとまちづくりとか、民間による活動もありますが、大きくは公的な部門が担っている場合が強いです。公的な部門が中枢を果たす災害復興や災害対応での場面において経験の知識がどのように伝わっているのかというのかが、まず一つ目の論点になります。言うのは簡単なのですが、そんなの伝わっているに決まっているじゃないかとか、いっぱい資料が残っていますが、これはなかなか難しいというのが、現実的な問題になります。 阪神淡路大震災のことが風化したという言葉を聞かなくなりました。あのころのことが、今だとどれだけ残っているかとか、いろいろな活動が続いているというのがニュースでありますけれども、阪神淡路大震災のことが風化したという言葉は、多分聞かれなくなったと思います。それはひょっとしたら東日本があったからかもしれません。東日本の話は、今、風化した、風化が起きているという話が、被災地でも全国的にも聞かれる状況になっているわけですけれども、そもそも何が風化するのかと、それを逆で言うと何が残るのか、何を残すのかというところをきちっと捉えないと全然残らないじゃないかという問題意識から始まったのがこの委員会での1点目の論点となります。 2点目は、そのことを考えていく上で、例えば今、都市計画の部門にいる20代、30代の人たちにとって阪神淡路大震災は歴史的事象なわけです。兵庫県職員であり、神戸市職員であり、西宮市職員の若い人たちは、恐らく昔あった歴史、生まれる前、生まれた直後にあった、昔々の事柄であると捉えています。そこから現在まで災害を何回も経験しているのであれば、経験値というのは引き継がれますけども、ほとんど経験していないですね。大規模な復興計画をつくるなどの面的な都市計画事業の大半は、日常の経験の中でしか経験値が引き継がれません。阪神淡路大震災のときこうだったということだけが、知識や情報でしか残っていないわけですから、今の20代の人たちに同じことができるかというと、同じことはできるかもしれないけれども、昔の経験をもとに何かをするというのは難しいわけです。経験した者から、経験していない者にどのように知識を伝えるのかという問題点があります。経験した者が経験しながら、その知識を伝えていくことはできるけども、経験した者と経験していない者の圧倒的な差をどう埋めるのかという問題が発生します。災害復興というのは経験しません。何回も経験するものではないし、そんな何回も起きるものではないので、基本的には経験しないのです。一生の中に一回あるか、ないかです。まして阪神淡路大震災や東日本大震災クラスの大規模な都市計画事業が行われるようなことは人生の中で2回も3回もあったら、それは何かおかしいという話になってしまいますので、まあ起きないし、起こらないというわけです。経験した者から、経験していない者に伝えるという非常に難題が、大きな問題が存在しています。これを復興検証という名のもとで、現在の神戸の状況や、阪神淡路大震災の状況を見ながらどのような経験が未経験の人に対して拾えるのか、未経験の人たちが、経験者がつくったものを見てどのようなことに知識を拾えるのかということを繰り広げながら、経験や知識の継承について取り組んでいこうという委員会の活動を行っています。委員会のメンバーは学識経験者と、大学の教員と行政職員、若手の行政職員の方々の8名から構成されています。委員長である私は40代中頃でこの委員会を任されています。そのため、阪神淡路大震災のときは現役ではないわけです。まさに大学4年生でしたから、そのぐらいの人たちが次世代を担っているわけです。つまり、誰もが未経験者なわけです。その中でどのように知識というものが、引き継がれているのかということを委員会として取り組んでいます。この委員会での活動に対して日本都市計画学会の本部から予算をいただきまして、特別委員会という形式で実行させていただいています。膨大な予算をいただいているのですが、なかなか時間がなくて動けていないですが、来年度は阪神淡路大震災から25年ですので、そこでの様々な活動を、さらにインテグレートさせていって、まとめていこうと思っています。 今年度は大きく4つの取り組みをしていきます。一つ目は、阪神淡路大震災については、やはり当事者から聞かないとわからないということで、都市計画・まちづくり事業を経験した当時の神戸市の住宅局の局長とコー・プランの小林先生に話を伺いました。それぞれ1時間ずつ話を聞いたのですが、ここで出た結論はわからないということです。お二人にしゃべっていただいても、若い人たちは何を言っているのかよくわからんという状況です。つまり、阪神淡路大震災の頃はこうでしたという話をしゃべられても、まずその背景が異なり、制度も違う、そのころの状況を思い浮かべろと言っても、それは生まれたころの状況ですから、それは無理だという訳です。共有しているものが違う中で情報だけを伝えるというのは、これは相当難しいなということです。伝える側も、聞く側も工夫しないと、にっちもさっちもいかない状況になってきているというのがよくわかったヒアリングでした。それから半年たっているので、いま聞き直すと大分よくわかるようなってくると思うのですが、その場で話を聞いて、それがすぐ伝わるかというと、そんな簡単なものじゃないということがよくわかった活動でした。 次に、現在、国土交通省が推進している復興イメージトレーニングという事業があります。これは行政機関を中心に行われているものなのですが、あるまちが、ある年に被災して、その被災状況から復興していく手順を学ぶものです。復興計画作成からどのような事業を行っていくというところまで、それを図上演習型でイメージトレーニングする取り組みを京都市が行われたので、そこに参加させていただき、どのような考え方でトレーニングしていくのかということを体験してみました。ここからわかるのは体験するのはいいことだということです。手順がわかるから、大体の手順がわかるし、そこで伝えていかなきゃいけない制度がわかります。しかし、現在の制度ではわかるのだけれども、ノウハウとまではいかない。つまり何が肝でどこが難しいのかということは、イメージトレーニングだといまいちわからないし、そこに経験者が入ってないと、どこが鍵となるのかということもよくわからないということがわかりました。つまり、イメージトレーニングだけ、あるいは図上演習だけでは難しい、しかし経験しながら考えていくというのはとてもいいことだということが見えてきました。 3点目ですが、先月末に東日本の被災地を巡らせていただきました。被災地から8年たっているので、復興事業がほぼ終わりかけの状況の中で、現地を見て、また仙台市の復興計画を作成された課長さんからヒアリングさせていただきました。仙台市に入職された1年目、2年目、3年目の人たちに、その5年前、6年前、8年前の話をするということは、仙台市の課長さんはほとんどされていないと仰っていました。同じことを言ってもなかなか伝わらないし、わからないだろうということで、聞かれたら言うけれども積極的にこっちから言うということはないかなということです。これが結構キーポイントだと思うのですが、日常の仕事をしていれば対処できるから、日常の仕事の中でしか、経験やノウハウを埋め込んでいかないと、なかなか世代を超えては伝わらないという話をされていました。そのためには総合計画や復興計画の作成がとても大事だということを話されていました。 現在の到達点として、今年度は知識継承という点に着目しながら行ってきましたが、知識を継承することは簡単ではないということです。そのため、学会として取り組むにはいい案件ではないかと個人的には思います。知識を継承するというのはそんな簡単なものじゃない、どうやったらいいか、実は決まってない、そもそも何が継承できるのかもよくわからない、その中で都市計画や復興計画で必要となる知識とは一体何なんということを整理しなければいけないのではないかと思いました。知識を継承するという分野とは昔からあります。有名なところでは、企業の中でうまくいった知識をどのように展開していくための経営理論などです。そこには暗黙知というものと形式知があります。都市計画もおそらく暗黙知と形式知の組み合わせが、なかなか難しく、形式知だけでは解けない。でも暗黙知だけでは伝わらない。形式知と暗黙知をどのように組み合わせて伝えていくのか、そもそもどうやって伝えていくのかという難しい問題があるのだなと思います。ましてや災害だとさらにです。つまり一生に一回あるかないかの経験も伝えるというのは、それはよほどの問題であるということです。なかなか現在の知識継承というか、その知識意見の枠組みからも難しい問題であるというのがこの2点目で、災害からの災害への知識移転というのは一体どんなものなのかいうことを見ていく必要があるのかなと、難しいのですけども、2点目は、とはいえ実は実態があるというところになります。 阪神淡路大震災があって、その9年後、2004年になりますか中越地震がありました。中越地震には阪神淡路の経験者が相当入っています。相当の人たちが入っているにもかかわらず、同じ事業はしていません、同じような事業がほとんどなかったわけですが、いろんな知識が中越には入りまして、それによっていろんなことが生み出されています。恐らく阪神淡路大震災がなければ生み出されていなかったであろうこともあったと思うわけですから、災害から災害への知識移転は存在しているはずです。でもどの知識が備わったかというのはきちんと整理されていません。過去の災害の経験を、今ある現実の災害の対応に転用し、その経験を使って活動するということは、いま現在でも行われているわけですから、それが同じものを同じように使えない中で、特に土地利用や復興計画ではどのような知識が転用されていくのかということは実態を捉えることができるのではないかというお話になります。環境も違います。時間も経過しています。被災の状況も違うのであれば、何が伝わるのでしょうか。何を伝えることができるのでしょうか、ということを考えていく必要があるのかなと思います。学習における知識記憶と経験記憶との違いについては、基本的に人間の記憶は1カ月たったら消えるので、本を読んで覚えているかというのを1カ月後に聞かれるとほとんど覚えてないということです。でも1カ月後覚えてないとテストで点が取れないから、そのためにはどうするかというと自分の中でまとめるという作業、つまり経験記憶にしていく必要があります。手を動かして、頭を動かすことで経験記憶というものが残っていくという話があります。災害の経験記憶というのは、災害が起きないと引き継げないわけですが、ほかで起きている災害に前起きた災害の経験をもっていって同じように経験しながら実行するというのは、ひょっとしたら経験記憶の継承なのかもしれません。経験という名のもとで記憶が媒体となり、その媒体のもとで記憶が伝承していくという形なのかもしれません。このあたりが都市計画や復興計画では重要なのかもしれないなというのが、いま現在の到達地点です。 さて、そんな難しいこと言われないでも、とりあえず話聞いて勉強したら伝承できるのではないかということが、ひょっとしたら出てくるかもしれませんが、それは基本できないです。東日本大震災で起きたことは阪神淡路大震災で問題だと言われたことの、どのぐらいが発生し、東日本大震災では解決されているのかということで、それはできていないですね。それは能力の差だと言ってしまうと、元も子もなくなってしまう、そもそも災害なんて、災害が起きるなんて思ってないし、災害が経験もしていないので、未経験者は能力がないに決まっているわけですから、その中で何ができるのかということを、この2年間で真正面から考える取り組みとして、この委員会で頑張っていこうと思っています。これを2年間程度で、解が出るともなかなか思わないのですが、中越大震災で実行してきた経験談や、阪神淡路大震災を経験し、中越大震災も見て、東日本大震災も経験してきた方の経験談を聞きながらこの知識をつなげていくというものはどういうものであり、ましてや未経験の人に伝える、もしくは知識を獲得するというのはどういうことなのかということを、きょうは皆さんと議論していけたらいいなと思っております。 以上、簡単ではない説明になりましたけども、このような取り組みを進めている委員会であるということを知っていただいた上で、本日の議論に参加していただければと思います。よろしくお願いいたします。

話題提供① 渡辺斉氏「阪神・淡路大震災の復興経験から中越地震の復興へ」

インタビュー調査風景
▲話題提供①「阪神・淡路大震災の復興経験から中越地震の復興へ」渡辺斉氏
ただいま紹介いただきました渡辺と申します。よろしくお願いいたします。私はちょうど15年前に中越大震災の復旧、復興を担当しましたので、その現場の最前線で担当した経験と記憶について、きょうは御報告させていただきます。 24年前に発生した阪神淡路大震災では応急危険度判定ということで、当初から現地こちらに駆けつけて、本当に大変な中で経験させていただいた記憶がありますし、長年新潟県庁で中山間地域のまちおこしや高齢者の住宅政策などを担当してきましたが、それが復旧・復興の現場ではとても役に立ったなと思っています。また阪神淡路大震災の経験者の方々からは、多くの方々が中越大震災の被災地に応援に来ていただきまして本当にありがたかったと思っています。 ちょうど15年前の10月23日に、阪神淡路大震災以来、初めての震度7という激震を記録した地震になります。典型的な特徴として、軟弱地盤地帯を襲った直下型地震ということで、余震がたくさん発生したために、住民の皆さんが非常に怖くて、なかなか家に帰れなかったということです。2カ月で18回もの震度5弱以上を記録した地震です。それから阪神淡路では最大加速度850ガルが記録されたのですが、中越大震災の被災地である川口町で2,500ガルを超えて加速度が記録されました。いわゆる雪国型の3階建て住宅が一回飛び上がって落ちてしまうぐらいの重力加速度よりはるかに大きい揺れを記録しました。それから山崩れがたくさん起き、幹線道路網が崩壊して山間集落が孤立したというのが大きな特徴です。60以上の集落が孤立しました。ただ、阪神淡路大震災と比べると、亡くなった方は非常に少なくて感電死を含めて68名、直接建築物の倒壊で亡くなったのは、この中で14人です。非常に大きな揺れにもかかわらず亡くなった方が少なかったというのが、その後の復旧、復興では不幸中の幸いだったなと思っています。改めて、あの地域は日本有数の豪雪地帯で、大体2メートルから4メートルという雪に冬場埋もれる地域でして、そういった長年雪と戦ってきた職人さん、大工さん、建築士の皆さんには感謝しなくちゃいけないと思っている次第です。非常に柱やはりが太く、丈夫にできているというのがその構造です。避難所の開設が約2カ月間、仮設ができるまで、ピーク時の避難者が約10万人を超えたという地震でした。 実を言いますと、地震が起きた日が知事の交代の日で、金曜日の夜、夕方知事を花束で送った最中、翌日に地震が起きてしまい、まだ、次の知事が月曜日に来るというタイミングだったので県庁内は、実は大混乱をしていました。当時、あの地域に地震が起きるって誰も予測していなかったものですから、危機管理対策課と危機管理監が置かれていたのですが、誰も経験のない人ばっかりで、実は現場は非常に大混乱しました。私自身は住宅対策を担当していましたので、若い職員を連れて、最初は小千谷が震源じゃないかという情報が入ったものですから、とにかく現場に向かおうということで、職員とともに現場に向かいました。停電して道路が壊れているものですから、幹線道路網の裏を通りながら、時間をかけながらやっとの思いで小千谷にたどり着きました。たどり着いた時には、震源が川口町で、川口町及びや山古志地域が大変な被害が出ていると、山古志の村長の長島さんが、このままじゃ村がだめになるということで、全村避難を自衛隊に要請してヘリがちょうど来ているという状態でした。これは十日町地域の幹線道路ですが、ほとんどの幹線道路がこのように壊れているという実態でした。 これが山古志を上空から見たのですけれど、一応は小千谷まで行ったのですが、山古志や川口には行けなかったものですから一旦県庁に戻って、今度はヘリで被災地に入りました。ヘリで川口町の震源付近に行ったら、町長さんも茫然として何をしたらいいのかわからないということで、役場も怖くて入れないということで、役場の前でテントを張って、今後どうしたらいいかというような相談を受けた次第です。この場所は震源のすぐ近くなのですが、余震による倒壊で、たまたま第一撃では壊れてないということと、あと非常にコミュニティが色濃く残っている地域だったものですから、あそこのおばあちゃんはあの部屋に寝ているはずだというのをみんなわかっていたので、余震の間に皆さん助け合ったということが人命救助につながりました。警察や消防が来る前に自分たちで助けあったということは大きかったと思っています。 ただ、皆さん家に入るのが怖くて、揺れが大きい余震がくるものですから、肩を合わせて道路や農業用のビニールハウスの中で寄せ合って避難したというのが実態です。たまたま不幸中の幸いであったのは新潟県の10月の末は例年天気が悪いのです。そろそろ雪がふる時期ということで、時雨の時期なのですが、たまたま地震から数日間快晴が続いたということ、これは非常に不幸中の幸いだったと思います。もう一つはお米の収穫が終わっていたということが中越地震では不幸中の幸いだということと、もう一つは冬場でなかったことです。冬場の雪の時期にこの地震が起きていたらものすごく大変だったと思います。そういう意味では冬場でなくて、雪降りまでに約2カ月の余裕があったということはとても大きかったです。2カ月間で仮設住宅約1万人分をつくったのですが、その時間があったというのは大きかったなと思います。 ただ、自分たちも反省しなくてはけないのは、山古志、小千谷、川口などの有名な仮設住宅団地には、義援金もたくさん入りました。要するにメディアに載ったところと載らないところの格差がすごくあって、ここは山古志の裏の途中の場所で、全壊率が高くて被害が大きかったのですが、ほとんどメディアが伝えなかったため、義援金もこないし、いろんなボランティアの方も来ないことがあり、メディアに伝わることによる格差が、今後大きな課題ではないかと思いました。やっぱり芸能人や有名な料理のシェフなどはメディアが取り上げる有名な場所へ訪問されます。ですから、そうでなくても皆さん家が壊れて大変なので、そういうところにどうやってケアしていくかということが私たちの大きな課題だなと思った次第です。 これは新幹線の倒壊現場です。ただ、亡くなった方は一人もいなくて、けが人もなかったそうです。地震から4日目に2歳の優太ちゃんが東京都庁のハイパーレスキュー隊の方に救助された現場です。基本的に生き埋めから3日が限界と言われていのですが、子供は生命力があるということで、92時間後に助けられた現場です。とても明るい話題だったです。¥ 自分自身は、まずは仮設住宅の建設に取り組みました。地震後に一番大きな被害を受けた山古志とか、旧小国町であるとか、栃尾とか10市町村が長岡市に合併しました。旧山古志村長の長島さんが山古志の復興の責任者を担当していました。ただ、長島さんはその後すぐ国会に行ったものですから、その後任で3年間、山古志の復興を担当させていただきました。そのときに担当したのが地域内巡回型の復興住宅の開発、集落の総合的再生、持続可能な地域再生に向けたプラットホームである「山の暮らし再生機構」の設立などを担当しましたので、本日はそのあたりのことを紹介したいと思います。 あと、中越大震災で役に立ったのが復興基金です。これは金利運用型で行政が基金を持たず、一旦民間に移しかえて財団をつくって復興基金をつくったために、税金ではなかなか対応できない分野に対して、きめの細かい対応ができました。これは熊本や東北のほうにさんざん伝えたのですが、熊本や東北はどちらとも行政がもつ復興基金にしたものですから非常に使いにくくなってしまいました。中越大震災の場合はこれがとっても使いやすかったので、きょうは紹介させていただきたいと思います。 その中で、私自身が制度設計にかかわったのが、例えば集落でも、あそこの神社が修繕されないとなかなか帰る気がしないというように、心の拠り所の復興が大切です。ただ、神社は宗教施設なので、税金を入れるわけにはいきません。そうしたところに復興基金を入れて、祠や神社の再建を行いました。阪神淡路大震災のときも大変だったのですが、いわゆる在来木造住宅で、重い瓦というのはスケープゴートにされたのですが、新潟県もかなりそういう風評被害出たものですから瓦産業を何とか守らなくてはならないということで、瓦を使って復旧する家屋に補助金を出すことにも活用させていただきました。 後ほど石塚さんから御紹介があると思いますが、復旧、復興を担っていく人材作りはとても重要で、とりわけ地域と行政の間に入ってつなぐ人たちの存在が重要だということで、地域復興支援員制度というのを創設しました。この制度はとてもうまく機能し、その後は総務省の地域おこし協力隊につながっていったという制度のものですから、ある意味で貢献できたかなと思っております。 最初に取り組んだのは仮設住宅ということで、雪の日までにということで約1万人分の仮設住宅をつくらせていただきました。実は神戸のときに仮設住宅や復興公営住宅での孤独死の問題が非常に大きく取り上げられ、お年寄りのコミュニティの問題なども話題に上がりました。私自身もまちづくりの勉強の会に出ていたものですから、孤独死やコミュニティの問題について正面から向き合わなくてはいけないということで取り組みました。 大変だったのは、そのお年寄りの助け合いであるとか、住みなれた地域に近いところに仮設をつくって田んぼや畑に通えるようにするという配慮をしていくためには、どうしても時間がかかるので、何とか丁寧にやろうと思っているのですが、そういう経験のない上司が結構いました。とにかく何でもいいからマスコミが見ているのだから早くやれと言う訳です。でもそういう偉い人たちを抑えつけるのは、実はすごく大変で、現場でやっているときはいいのですが、後ろから飛んでくる矢というのは正直言って大変でした。やはり経験のない人は、とにかく被災者のことを数でしか見ていないし、スピードだけを見ていて、一番気にしているのはマスコミなのです。マスコミにまた言われたらどうするだという、そこを抑えて丁寧に助け合いができる仮設住宅をどのようにつくるかを考えることはとても大変だったのですが、何とか全国の県庁から専門家が来ていただい頑張っていただいたので、何とかやれたかなと思っております。特に配慮したのは、できるだけ住みなれたところに小さな仮設住宅をつくっていくということと、あとは大規模な仮設住宅、例えば山古志みたいに全村避難したところについては、集落単位で入っていただくことを考えました。あとはお年寄りの単身者の隣には大家族に入っていただくとか、できるだけきめ細かく配慮いたしました。それから助け合いという観点ですが、建築の場合は本来であれば東西軸で棟を配置するのが日照、通風を考慮する上で常識なのですが、中越大震災の場合は、南北軸にして玄関を対面させて、朝晩声かけができるようにということで、むしろ助け合いのほうを重視して配置計画を行いました。それから初めて取り組んだものでは、談話室をつくってボランティアの皆さんとの交流をすることや、お茶飲みをするスペースを設けたのはとてもよかったです。それから高齢者がたくさん被災したものですから、デイサービス機能を持ったサポートセンターを計画したのですが、当初は災害救助法の補助対象にならなくて、特に集会はスペースを補助対象としていいと言われのですが、給食サービス用の厨房機器と、介護用の浴槽がだめだと言われてしまい、いろいろ知恵を絞ったら、赤い羽根共同募金の共同募金会から寄附金を出してくるということになって、サポートセンターをつくりました。これはとってもよかったです。その後、厚生労働省にこの成果をいろいろ報告させていただいたら、東日本大震災からはこのサポートセンターが災害救助法の対象になったということで、そういう意味では貢献できと思っています。これは長岡の大きな仮設住宅団地なのですが、南北軸にして玄関対面させて、大家族の隣には単身とか、できるだけきめ細かくしていこうということです。 あと全国から応援に来てくれた職人さんたちに本当に感謝しており、昼夜3交代で、とにかく冬、正月はみんなで暮らせるようにということで頑張っていただいて、本当によく職人さんたちには頭が下がる思いです。やっと仮設住宅ができて入っていただいたのですが、大雪に見舞われまして、実は設計積雪2メートル見ればずっと暖冬が続いていたものですから大丈夫かなと思っていたのですが、そういう年に限って4メートルも降ってとっても大変だったのですが、本当に住民の皆さんよく耐えていただいたと思います。結露などの問題もたくさん出てきてしまい、後にエアコンや換気の奨励など、いわゆるライフスタイルでこれだけ改善でき流ということを話したのですが、特に最初は結露が大変でした。 日本の災害救助法には仮設市街地って概念がなく、大規模な災害が起きたときはやっぱりまちづくりとしての生業の継承というのはどうしていくかは大変な問題でした。まだ災害補助対象になっていないものですから、床屋さんからどうしても床屋をやりたいと相談を受けたときに、そのまま厚生労働省に聞くとまずだめだと言われると思いまして、実は営業してから報告させていただいたことで、何とか認めていただきました。いろいろな生業を継承していくためのまちづくりとしての仮設市街地についてはこれからとても重要な点です。これは雪の状況です。本当に皆さんよく耐え抜いていただいたなと思っています。だんだん夏になってくると皆さんいろいろ工夫して、コミュニティとか、緑とか、畑をやったりとか、縁台将棋をやったりとか、仮設の中でもいろいろと彩りが出てきているところです。これを木造の仮設住宅でやっているのは非常によかったです。 その後インフラの復旧や集落の再生に入っていく段階なのですが、やはり自然はすごく正直で、もともと沢があったところや、盛り土したところなど、自然に逆らったところはみんな壊れています。やはりそのような意味では、もう少し丁寧に自然を読みながら、効率性や利便性だけではなく、自然と寄り添いながらまちや地域をつくっていくということがとても重要だなと思いました。 戦後大規模な機械を使って利便性、効率性、経済性をもとにつくったのは大体壊れていて、戦前の人たちがつるはし一丁でつくった、例えば中山隧道であるとか、裏道が以外と壊れてない。実を言うと、その戦前の人たちがつくった村道を仮設道路として孤立した集落をつないだというのは僕たちの大きな教訓です。 全くあの地域で地震が起きるということは考えてなかったもので、その後に本当に苦労したものですから、やはり実演防災とシミュレーションというのはとても重要だなと思いました。いざ災害が起きたときに、どこに仮設をどれだけの量を供給できるかというのはあらかじめ把握しておけば、とても楽だったなと思います。そのことがわからない中で復旧をやっていったものですから、右往左往しながら進めていきました。小さい単位の防災対策はとても重要だなと思いました。これから多分南海トラフ地震や首都直下型地震なんかは大変だと思うのですが、そのような大災害時には生き残った人たちの住宅をシェアするみたいなことも考えたほうが、いざというときは有効なんじゃないかなと思いました。 先ほど申し上げましたように生業の継承や、まちづくりとしての仮設市街地の概念が、これからとても重要ではないかと思います。20世紀型開発、利便性、効率性だけではなくて、もっと丁寧に自然を読みながら大地と共生しながら生きていくということも大事なのではないかなと思いました。 地域循環型の予算も重要です。阪神・淡路大震災では在来木造住宅が非常に大きな被害を受けたため、被災後に大手ハウスメーカーとゼネコンの建物に取って代わったため、その教訓を得て、新潟では、ぜひ地域の建築士、大工さん、地域の素材を使って再建しました。長島さんからは、約28坪で800万円程度の値段で建設してくれと言われたのですが、努力に努力を重ねて大体1,300万ぐらいで供給できるようなモデル住宅を開発して住民の皆様に見てもらって、さあやろうと思ったのですが、やはりハウスメーカーのほうが商売上手でハウスメーカーのほうで再建した戸数が多かったです。ただ、あの被災地は災害がなくても厳しい地域で、中山間地域で過疎化、高齢化というのが進んでいたものですから、災害のあとのことを考えると美しい村づくりをやっていろんな交流で人々を呼び込みながら持続的な地域をつくる景観づくりをするということが、将来とても重要だなと思いました。住民の皆さんに景観に配慮してくれなんて言われても、もう全財産失っているので、頭に血が上っている中でなかなか難しいために、ハウスメーカーにお願いの手紙をみんな出しまして、県内のハウスメーカーにそういう事情があるので、ぜひそこを酌んで住民の皆さんの住まいの再建に当たっては地域の景観とか、そういうものに配慮してすることをお願いしました。私たちが一生懸命開発したモデル住宅よりも、ハウスメーカーの住宅を選ぶのが多かったものですから、苦肉の策でやった次第です。ただ、トリガーとして各集落の復興公営住宅につきましては、地域循環型の住まいづくりということで、これをトリガーにして住民の皆さんに見ていただきました。木造の公営住宅を主体にして供給したのですが、入居者の大半が高齢者だったため、目的外使用ができるようにしました。通常補助金適正化法という制度があって、目的外使用は非常に厳しいのですが、当時の国交省と交渉して、8年後には目的外使用ができるということにしていて、今では若者の定住であるとか、あるいはグループホームでなどの用途に転用できるように配慮をさせていただきました。それは東日本大震災の被災地にもお伝えしているところです。国もよく理解いただいて、従来であれば25年程度経過しないと目的外使用は不可なのですが、8年が経過すれば転用してもいいという形式を取りました。このような方法で各集落では木造公営住宅を建設しました。 それから住まいの再建だけではなくて、集落全体の再建が必要なところはかなり幾つかありまして、それに取り組みました。長島さんから、とにかく2年で村に帰ろうというスローガンつくったので、2年で全て完了させてみんなを村に帰還することを言われたのですが、やはり厳しかったです。具体的なロードマップをつくっていくとどうしても時間がかかるため、住民からもどんどん突き上げがくるので、やはりいろいろ話していると先行きが見えないというのが一番不安な点です。先行きがきちんと見えてロードマップ等が見てくると3年でも、4年でも厳しい被災生活を耐えることができるので、最後は住民の皆さんに判断していただきながら、そのかわり具体的な道筋だけはきちんと示そうということをやりました。結果的には3年2カ月が経過して村に戻っていただいたということです。村に戻っていただく間にいろいろ基本方針つくって、集会場で話し合いを重ねていくわけですが、僕たちプランナーとしてはやりたいことはたくさんあったのですが、最後は住民の皆さんに選択していただくということでやりました。そういう意味でプランナーとしてやりたかったことの半分ぐらいしかできなかったのですが、そこで生きていくのは住民の方々なので、住民の皆さんが自分たちで決めたことであれば、いろんな課題にぶつかったときに乗り越えていける訳です。役所にやってもらったとなると、役所に文句ばっかりきますから、最後は住民の皆さんが自分の力で決めたというプロセスはつくろうということでやらせていただきました。そのようなプロセスを経て住民の皆さんが成長してきたことはとても感じました。みんなで助け合って住むという仕組みであるとか、3年近く仮設でともに暮らしたという経験が住民の皆さんも成長させたのだと思います。復興公営住宅でほとんど対応できるのですが、復興公営住宅で対応してしまうと自力で生きていこうという人たちがいなくなるので、できるだけ自立再建を奨励しました。誰が見てもあの人は大変だなという人だけ復興公営住宅に入居してもらい、他の方は自分の力で再建してくれということで、そこは結果的にはよかったなと思っています。ただ、日本の制度上面倒なこととして、所得は把握できるけど、資産が把握できないのです。所得に応じて復興公営住宅に入れるかどうか決めるものですから、その把握がとても難しかったのですが、地域の人が誰しも納得するという人を基本的には復興住宅に入っていただいて、できるだけあとは自分の力で再建してねということでやらせていただきました。それは多分、厳しい山に帰っても生きていくたくましさにつながっているのではないかと思った次第です。 プランニングはいろいろやったのですが、ほとんど実現していません。明治の記憶を何とか残したいなと思い、明治中期の建築物だったものを、所有者に説得をして交流センター、訪れる人がいつでも集まれる場所つくりませんかと提案させていただいたのですが、結局は実現しませんでした。これも明治時代の建物だったのですが、所有者の方は新しくしたいということで、このまま消失すると明治の記憶がなくなるなと思って、市役所でこれ買わせていただき、建物の材料を保存し、長岡の国営公園に再建させていただき、何とか明治の記憶を残したました。これは豪雪地帯の建物の特徴が出ており、本当は地元で再建したかったのですが、非常に難しいなと思いました。これは皆さん村の人たちと集会場だけではなくて現場でも話し合っている様子です。このような議論の中で再建していくというところです。 一番大変だったのは、誰が誰の隣に住むかを決めるのはすごく大変でした。おじいさんの代であの人にいじめられたから、あの隣は絶対に嫌だとか、そういう生々しいお話をどう調整していくかというのがすごく大変でしたけど、本当に皆さん乗り切っていただいたなと思っています。 復興基金で対応した歴史的建造物の修復ですが、お金がなければ壊そうとします。個人の資産に対して税金を入れるわけにはいかないのですが、このままいくと地域の歴史的な宝物が全部なくなってしまうということで、外観は共通の財産だということにして、復興基金を活用して外観の補修に4分の3の補助する制度を導入しました。個人所有の歴史的建造物は、今回熊本地震でも東日本大震災でも問題になった訳ですが、このような建物を残す手法については中越地震の大きな課題でした。歴史的建造物を残していくことで、地域の皆さん、いろんな形で活用していただき、とてもいい空間ができると思います。 こちらは大規模な被害を受けた小国の法末という集落です。ここでは優れたリーダーがいて、全壊率が高かったのですが、壊さないで修復して、江戸末期から明治、大正期の建築物の原風景を守りながら再建しました。日本都市計画家協会の専門家などが応援に入ってくれたおかげで、在来木造の良さを生かしながら伝統的な集落を守ことができました、農家民宿やオープンガーデンなど、このような動きも出てきています。 持続可能な地域再生の取り組みとしてプラットフォームをつくりました。これはドイツのエムシャー川流域の再生を担ったエムシャーパークをモデルにして、山の暮らし再生機構という組織を設立したのですが、10年限定という期間限定でつくったのですが、復興基金が延長されたということで、15年限定となりました。来年度でこの団体は解散するのですが、職員のキャリアアップをどうするかが大きな課題で、ここの職員の皆さんは頑張っていただいて、地域支援員の皆さんもこの組織に所属しながら各集落に入って復興支援を頑張っていただいたものですから、その後のキャリアアップというのは今後の大きな課題だなと思っています。まずは中山間地域に住む哲学をつくって、それに対して多様な主体が、活動できるためのガイドラインをつくってサポートしていこうという組織です。これはマラソン&ウオーキングなのですが、復興した集落を見ていただくという取り組みや、アルパカで集落のビジネスを起こしています。復興公営住宅の冬場の駐車場では補助金をもらって作った建物を直売所にしているところです。とてもいい交流の場になっています。補助金はいろんな目的でうまく使うといいかなという気はしています。これは闘牛です。おかげさまで近年、非常に盛んになってまいりました。これが錦鯉です。錦鯉も大きなダメージを受けたのですが、近年大体、今、海外の方が8割余りいて復活してきて、昨年のオークションで一番高く売れたのが一匹2億円です。これは山古志ではなくて広島の鯉なのですが、海外の人たちに、今では泳ぐ宝石ということで人気が出てきて地元の産業としては非常に伸びているところです。復興交流館では、記憶を継承していくということで、震災当時は小学生だった彼女は、いまでは職員になって自分たちの記憶をいろんな方々に継承していく活動を取り組んでいます。年間3万人ぐらいの方々が訪れるようになってきて、それまでは中山間地域でほとんど人が来ない地域だったものですから、逆に言うと震災をばねにしていろんな交流が生まれつつあります。人口だと今では半分ぐらいです。半分ぐらいだけなのですが、皆さんが元気になったということで、今、全国的にいうとどこもかしこも人口減少が課題なのですが、課題だ、課題だというよりは、残った人がいかに幸せになるかみたいなほうが幸せになるかみたいなほうがリアリティがあるのではないかということを皆さんと一緒に話し合っているところです。これは地域のおばあちゃんたちが経営している郷土料理のお店です。実は交流の場ということで補助金を出すことで商売をやっています。食事処と山菜の直売所が開設されたことで、おばあちゃんたち元気になって生きがいにつながっていった。ある種のコミュニティのビジネスになっているところで、これは妙見のメモリアルパークで、先ほど御紹介した優太ちゃんの助かったところ、メモリアルパークはどんどん管理費がかかるものですから、できるだけ管理費がかからないように自然の中でうまく継承されていけばいいなと思います。ちょうど震災が発生した10月ごろに咲く白菊を植えて、震災が発生したころになると白菊がこの周りに咲くというような形にして、できるだけお金をかけない形でやっています。東日本大震災の被災地からも色々な相談を受けているのですが、メモリアルどのようにしていくのかという点がこれから大きな課題だなと思います。 震災から15年がたってどうなのかいうことを皆さんがいろいろ言われていますが、データだけで見ていると厳しい現実なのですが、例えばいろいろお話しさせていただいていると、震災がなかったらもっと大変だったのではないかいう声もありますし、皆さんから受けた御恩を、今後いろんな形で返していければいいなということでみんなとやっています。御清聴どうもありがとうございました。

メンバーとの討論

委員会メンバー

お話ありがとうございました。人と防災未来センターの木作です。お話の中で経験のない人は、被災者を数で見ているというところはすごく印象的に感じました。越山先生からのご発言の通り、技術を伝えていくというのはすごく大変なことだと思うのです。ただ、阪神淡路大震災のときに関連死が多かったとか、そういう状況だったというのを勉強して、それを知っておくということだけでも復興するときによくなるのかなと感じました。そこで、仮設住宅を建てるとか、復興住宅を建てるようなときに、これを知っておけばもうちょっとよくなるような知識が他にあればぜひ教えていただきたいです。

発表者

一つは、先ほど数という話が出たのですが、皆さん生身の人間なので、ある種の想像力をどう働かせるのかというのはとても重要だと思います。そうすると本当に相手の痛みがわかると、じゃあこのようにしてやろうかとか、このようにしようかというのが出てくるのですが、数だけでやっちゃうとどうしてもおざなりの対応しかならない。特に往々にして行政の人ってそうなりがちなので、そこは想像力を働かせてほしいなと思います。それから仮設十九については、いっぱい反省すべき点がたくさんあります。一つは居住性が課題です。仮設住宅はプレハブ型だけではなく地域循環型でやれるといいかなと思っています。それから仮設住宅を転用できるようにするといいと思っています。仮設住宅は地球環境上すごくよくないと思うのです。あれ全てごみになってしまいますから、転用するといっても実際ほとんどごみになっていますので、本当にまずいと思います。 それから、あとは日本の制度上、いわゆる被災者再建支援法では住宅が壊れるとお金がもらえるのですね。修理すると余りお金がもらえないのです。できれば努力して直した人にお金をきちんとやれる仕組みがつくれると良いと思います。木造住宅っていうのは非常に強いですから、直せば使えますので。実は新潟県のときは被災ごみが大変だったのです。県内の処理場で処理できなくなって、山形まで被災ごみを処分したという経緯がありました。これはマスコミも伝わってないのですが、やはり地球環境問題で考えると壊さないで直すということに対して制度設計がうまくできていくととてもいいのかなと思います。

委員会メンバー

兵庫県立大学の紅谷と申します。貴重なお話しありがとうございました。 メンバーの中で若い土木建築系の技術系の職員さんがいるのですが、今回復興に関わってこられて、公務員としてのキャリアの中で直接復興とは関係なくても、こういう仕事をやってきたことが復興としてかかわったことの仕事に役立ったってことがあればお教えいただきたいと思います。

発表者

住宅政策を長年やっていまして、高齢者は非常に環境の変化に対して弱いであるとか、いろいろなケアが必要だというのがあって、高齢者住宅対策なんかやってきたことがある意味で仮設住宅の設計にすごく役に立ちました。中山間地域の地域おこしを長年担当したのですが、これまでの地域再生の経験はとてもよかったなと思います。ただ、行政の偉い人の大半は人事とか、財政とか、総務を出た人がトップの方にいるものですから、現場のリアリティがなかなかないので、その人たちを説得するというのはとても大変でした。マスコミが言っているのに何をしているのだって。それに対してこちらは技術者だから言葉が下手だということもあるのですけど、上司を説得するのはなかなか難しかったです。大っぴらには言えないのですが、最後は上に決算上げないでやったというのもありました。

委員会メンバー

大阪市建設局の安永と申します。貴重な話ありがとうございました。 今回、お話をお伺いさせていただいて、復興に当たってはコミュニティを大事にされたという話が随所に出たのかなと感じました。私もインフラ整備の業務の中で、地域住民の方々に合意形成の場でお話しする機会が多々あるのですけれども、やはりなかなか納得いただけないであるとか、話が落ちつかないというようなことが多々あったのですが、その場合よく大学の先生やコンサルなどの第三者的な立場の方々からの意見踏まえながら一緒に話を進めていくというケースが多々あります。担当された業務の中で、地域の方々となかなか折り合いがつかなくなった場面で大事にされていたことや、解決策みたいな話があればお伺いしたいです。

発表者

 無理やり合意形成はできるだけしないようにしようと思って、合意形成するまで待とうと思ったのです。やはりこちらでいろんなことをサポートしていって決めたりすると、地域に帰っていろんな課題に直面したときに住宅の皆さんがなかなかその課題を乗り越えていけなくて、あのときあの人がそんなこと言ったからとか、あるいは役所に決められたからみたいな形になるものですから、やはりそこは自分たちで決めたっていうプロセスを通ってもらいたいなと思っています。そういうプロセスを通ることで、住民の皆さんは何か課題にぶつかったときに強くなり、自分で乗り越えていく力があるのだと思います。ですから私自身もプランナーで希望のつり橋をつくりたいとか、フットパスをめぐらせたいとか、花の道コースをつくりたいとか、いろんなことを考えたのですが、ほとんど実現できませんでした。ただ、そこは地域の皆さんに選択していただくというプロセスが重要かなと思いました。 もう一つは、当初は仮設住宅で話し合ったときに集落の区長さんとか偉い人がいっぱい出てきたのです。そうするとあんまり建設的な話にならないのです。むしろお母さん方とか、若い人など、一緒に汗を流す人たちが出てきてくれる方が良いです。偉い人は口ばっかりで汗を流さないので、だからなかなか難しいのです。さっきのおばあちゃんたち何人かが出てきたら、いろいろこんなこともやりたい、あんなこともやりたい何ていうのが出てきて、とってもよかったなという気はしています。

話題提供② 畑文隆 氏 「阪神・淡路大震災の復興経験から東日本大震災の復興へ」

インタビュー調査風景
▲話題提供②「阪神・淡路大震災の復興経験から東日本大震災の復興へ」畑文隆氏
皆さんこんにちは。西宮市役所の畑と申します。よろしくお願いします。きょう西宮市役所から参ったのですが、きょうのテーマである阪神淡路大震災の復興経験から東日本大震災ということで、それを象徴する新聞記事がちょうど私に関してございましたので、御紹介をします。私は2011年の6月1日、東日本大震災の日から3カ月たっていない6月1日から、1年4カ月南三陸町役場復興事業推進課まちづくり推進室長ということで、南三陸町の復興計画を皆さんとつくっておりました。その1年4カ月の任期を終えていざ西宮に帰ろうかというときに、河北新報さんのほうで、報道いただいたのが、この新聞記事になのです。助っ人奮闘とか、阪神の経験生かすとかって書いていただいています。すごく悩みながら、皆さんと意見を交えながら復興計画をつくっていったことが書かれています。左下に達成感と心残りって書いています。達成感というのは1年4カ月かかりましたけれども、南三陸町の復興計画が一応できたというのが達成感なのですが、ただ、都市計画は種をまいているのにすぎないのです。都市計画に従って用地買収をしたり、当然地元がもっと突っ込んだ合意形成をしたり、高台に移転するということについては合意形成ができるのですが、高台にどのようなまちを、どういった形でつくるのか、そこでどのように皆さんがお住まいになるのか、当然次の住処として高台にお住まいになるわけですから、そこを調整していくというまちづくりがずっと行われてきています。南三陸では復興も大分進んで、住宅は大体整備されてきたところでございます。私自身が西宮市役所の職員ですけれども、神戸市の東灘区の住民で阪神淡路大震災に関しては被災者でもございましたので、その辺も交えながら語り部的にお話を進めていきたいと思います。 復興計画というのは南三陸でも、西宮でもつくっていきました。なんでこんなに急いでつくるのだろうって若い頃は思いました。その中で市民に復興の方針をできるだけ示して、早く示して、人々にみずからのまちを復興して、まちに戻る希望と方向性を与えるなんて上から目線で書いていますけど、実際に被災された方々が阪神淡路大震災でも、南三陸でも、どういった形でのまちが、今後形成されるのかが課題です。復興ですから、例えば去年も台風とか大変でしたけど、台風が来て壊れた橋をもとに戻すっていうのは復旧なので、それはまた早く直してよって、予算つけて早くやってよ、で済むのですが、復興については前よりも新しいまちを、別の暮らし方を、より安全安心なまちをという形でのコミュニティも含めながらつくっていくというところがありますので、やっぱり復旧と復興の意味は違うと思います。 復興を進める上で建築制限が必要となります。当然、面整備に至る場合は建築基準法の84条や、都市計画法の53条など、建築制限というのがあってまちができるということもありますが、ただ、これは全体から考えれば面整備を行う比較的限られた事業の区域に限られます。私も阪神淡路大震災の区画整理の事業に携わっていましたが、その10.5ヘクタールとか、30ヘクタールとか、その囲まれた大変な区域をいい形にはできるのですが、建築制限のかかっていない、いわゆる一般的なまちがどう再建していくかということのほうが本当に面積は広いので、そちらのほうのまちづくり、人づくりというのが本当に大変だなと思うところです。 3番目はやはりお金の話です。南三陸であれ、阪神淡路大震災であれ、お金を国から早く引っ張ってくるというのはすごく大事な仕事です。復興計画を書かないとお金引っ張れないです。やはりこんな被災の状況ですから、国にざっくり何億円よこせというような書き方ができるのかいうと、そうではありません。南三陸にしろ、西宮にしろ、神戸にしろ、こういった形でのまちづくりをするのだから、それを根拠にして阪神淡路大震災のときだったら建設省が大蔵省に要求するのに資料が必要だというところから絵を描かなといけないというのは行政上の事実ですので、ただその話はお金の話だけではなくて、やはりそれが地域住民の一定の合意のもとで、そういう絵を描いているのだということが必要かなと思います。 さきほど私は被災者の一人と言いました。阪神淡路大震災では、東灘区の魚崎というところに今も住んでいるのですが、尼崎の武庫之荘というところから引っ越しました。尼崎というところ地震は来ましたけど神戸ほど家は壊れたりはしていません。平成6年の12月に引っ越ししましてわざわざ被災の程度のきついところに震災の1カ月前に引っ越しました。そこでお正月明けて1月17日に地震に遭いました。家自体は倒れることはなく、クラック入ったぐらいで済んだのですが、自分の家のすぐ北側に木造の2階建て賃貸住宅がありまして、それが壊れているのを朝6時過ぎにわかりました。まだ引っ越ししてきたところだったので、あまりご近所とのコミュニティはなかったのですが、ご近所の方と一緒にそこの屋根の瓦をめくって、中におばあちゃんが生き埋めになっているという話があって、その近所の方とおばあちゃんを一生懸命引っ張り出して足は怪我をされていたのですが、意識はしっかりあってよかったなっていうのがありました。その時は既に午前10時になっていました。私は市職員ですから、これは市役所に行かないといけないということですが、電車は完全にとまっています。そのため、バイクで市役所へ行きました。市役所は当然災害対策本部になっています。そこで始まった仕事は、ある町で助けてくれという声があると言って電話連絡を受けたり、口伝えの伝票をもらってある町に行くのですが、やはり御遺体を見るわけです。当然それが消防職員であったり、病院の人だったら御遺体に触れて、御遺体を運んでというのは自分の意識の中にあるのでしょうけれども、当日、皆さんで通報に行ったところが間に合わなくて、倒壊して家の中から畳を引っ張り出して、その畳の四隅を御遺体のっけて軽トラに積んで遺体安置所に運ぶなんて仕事を1月17日は何体かやらせていただいたというのがあります。でも、ただ冷静なのです。冷静にそういうことってできるものなんだなと思いながら取り組んでいました。 1月18日にはすごく嬉しいことがありまして、自衛隊の宇治駐屯地から応援に来ていただきました。近所の人が、瓦礫の下に誰か埋まっているかもしれないから助けてくれと言うのですが、本当におられるのかどうかわからないのです。声も聞こえないし、音も聞こえないし、本当におられるかどうかわからないところを一緒に探すわけにはいかない、だから確実に誰かの声聞こえるところに助けに行くのであって、そこの場所についてはおまえらで何とかせいと言われるのですけど、何もできないのです。軍手をしてヘルメットかぶっているだけです。ウインチもジャッキも何にもありません。だから丸腰なので、結局我々もその現場に対して何もできなかったというのがありました。次の日の朝、1月18日になりますと、その自衛隊の方が来られて、ある倒壊した家屋の中からおじいちゃんを引っ張り出すことができました。生きていたのです。救急病院まで自衛隊の方と一緒にその人を運んで、その人は助かったというのがあって、すごく嬉しかったというのが1月18日の話です。 西宮のまちは2、3日前まで、まさかこんなことになるのかと想像する以上に倒壊していました。私も土木の職員ですから次に何やっているかというと72時間、90時間ぐらいは御遺体とか、人命の関係のことやっていたのですが、そのあとは倒壊家屋の処理です。家が道を塞いでいるので、それをまずどけないと奥の片づけができないというので、壊れた家を道路から除去するという仕事を現場で回していました。並行して1月20日から21日に被災住宅実態調査が行われました。倒壊家屋の状況をつぶさに見てこいと、住宅地図に赤とか、黄色とか、いわゆる被災程度に住宅の倒壊程度に合わせて、ずっと色を塗っていって、それがある程度面的に大体わかってくるのです。色を塗っていくと帯状に赤色が塗られる。要するに倒壊家屋の状況がひどいエリアがわかってくるとか、都市計画決定がもともとここにあるのだけれど、ここについてはこのまま住宅再建されたらもうまちづくりできないなとか、いうところが見えてくる調査を、我々が現場で倒壊家屋の処理をしているころに並行して内部のほうでやっていました。それが復興のまちづくりの面整備の計画につながってくるのですが、私個人としては現場で倒壊家屋の処理をしていました。2月6日にはプロジェクトチームというのができまして、復興の区画整理について担当することになりました。区画整理は阪神淡路大震災までにずっと10年以上経験していましたので、ある意味区画整理ではプロでしたので、その主担当として区画整理担うことになりました。そこから合意形成をしていくということが出てくるのですけれども、ここで特徴的な話があります。 震災が1月17日です。そこから2カ月の間に復興の都市計画を決めなければならないというのがあります。2カ月後の平成7年3月17日に復興の都市計画、区画整理について決めているのですが、説明不足を認め、住民と十分意思疎通をという意見書がついた都市計画の決定です。いわゆるおまえら十分話し合えよと、十分おまえらまだ話し合いできへんやないかと、それでも都市計画を決めているのだったら、それをちゃんとフォローしたまちづくりの進め方をしなさいよと、都市計画審議会から御意見をいただきながら行政は決めたということです。当然、震災から2カ月です。区画整理は立ち上げるまでに2、3年かかるのです。説得して、事業を説明して、お金の話も、住宅再建の話もいろいろした上で話をつけなければならないことを、たった2カ月で決めてしまった。早くまちづくりの方向性を見せて、そのまちに帰ってくるという夢と希望を与えるという大義名分もあるですが、区画整理は減歩という、例えば100坪もっていったら20坪削り、残りの80坪できれいな暮らしをしてくださいというのが区画整理の事業ですから、それを説得するのに時間がかかるのは当然のことで、それを進めたということになると我々行政が悪ものになりかねないというところが復興まちづくりにありました。アンケートを取って、総論、いわゆるきれいなまちをつくろうということに対しては賛成なのですが、いざ移転先とか、いざ自分の生活ということになると難しいというところはあるかと思います。 ただ、ここで強調しておきたいのは、先ほど中越で渡辺さんもおっしゃっていたことと一緒です。住民が、そのまちづくりに関して決めるプロセスがとても重要だというのは共通だなということを思っています。森具という復興区画整理区域では、このエリアを区画整理するということについては、押しつけられたかもしれない。でも、その中で暮らしていくのは我々だから、そのまちづくりの絵についてはみんなで考えようということが大切です。まちづくり協議会が5月頃に立ち上って、そこで皆さんで話し合いを始められました。国道2号線と43号線という2つの幹線道路という、その間で動かされるまちづくりなので、縦横に生活道路を計画されると抜け道にされてしまい、渋滞のときに生活道路にいろんな車が入ってきたしまうために、うそこの住宅街に用事のある人だけが使えるようなループ道路の提案を復興計画に反映していきました。このように森具の復興事業というのは早くできました。平成13年には換地処分され、平成11年、12年には大体まちができていましたから、かなり早くできたというのはあるかと思います。 一つ生々しいエピソードを言うと、この都市計画道路は昔から決められていましたが、区画整理の生活道路は最近決まる話です。でもその線形はとても大事なので、順番に物件移転保証金払って家が建っている場合、その移転保証金払って立ち退いていただいて、まちができるのですが、ある家がもめたのですね。2,000万の保証金のところ、2,500万よこせみたいな話です。もめたのですが、その他の8割、9割の方がいろんな状況の中で協力してもらったのに、その家だけがもめている。でも、もめているところはどうやら行政から金よこせみたいな感じで言っていた。でも、それは復興のまちづくりで、みんなで決めた道路なのだから、行政が敵じゃなくて、みんなで決めた道路を、みんなのまちづくりの中でおまえも協力しなさいという形で、地域の方がその方にプレッシャーかけていったというのは後で聞きました。もし、それが行政から押しつけられた道路であれば、それこそ行政に目いっぱいふっかけて言えとあおられたかもわかりませんけれど、逆に、みんなで協力しているのだから、ちゃんとやろうということになったという話もあります。 皆さんのマンションにお住まいになりたい方の土地区画整理ですから、土地を集める のです。国道2号線という幹線道路のところに土地を区画整理で集めて、そこで住宅を共同化しました。マンションデベロッパーが入って、40個ぐらいの権利の土地を一つのものに買い取って一枚の土地にして、その上に区分所有のマンションを建てるのです。当然マンションですから上に積み上がるので余分な床ができますから、その床の分を新しい方に分譲して、その利益でもって、そこに土地を提供した人の経済メリットがあるような絵を描くというような区画整理事業の中実現しました。おかげさまで復興事業は進んでいって、西宮も平成7年までは42万人ぐらいのまちでした。震災で3万人減って、38万人ぐらいになったのですけど、そこから上がって、今では48万人ぐらいです。 3月11日になると東日本大震災がありました。そのときは金曜日です。夕方ですから、市役所で仕事をしていまして、目まいが起こったかと思ったのです。何かふわっと揺れがあったのですが、当然、あの日も津波の注意報が発令されましたから、西宮市役所の職員も防潮堤門を閉めました。ある道路のゲートが通行止になるというので、ガードマンのかわりに一晩中立って、次の日に家に帰ってテレビつけたらショックだったのと、復興ということを意識しました。阪神淡路大震災は平成7年から13年の中で自分の中では落ちついていましたので、ハード系まちづくりの人間なんか仕事がないと思っていたのですが、それどころか、こういう状況を目の当たりにすると何とかしなくてはならないと思ったのは間違いないです。震災から二日後に、多分、俺、今から2年以内に東北のどっかで働いていると嫁さんに言ったそうです。実はそこから2カ月以内に南三陸町役場に派遣されることになり、そんな状況で、2011年からまちづくりが始まりました。 南三陸町の主要な道路は県道です。昔に区画整理やっていたという話はあるらしいのですが本当にごく限られていて、当然そのときの経験がおられる方がおられませんので、いわゆる面整備とか、区画整理とか、まちづくりとか、都市計画の決定などは経験されていません。当然、復興庁、当時の国土交通省、宮城県の都市計画課と対等にやりとりして、金を取ってこないとだめだし、計画に書いたことを認めさせないといけないというやりとりをしないといけなくて、阪神淡路大震災の経験があるからということで呼んでいただいたのですが、行政のことよりも一番危惧していたのは、やはりまちづくりのことです。 いわゆる災害危険区域では、津波が来る高さのところを建築制限します。復興都市計画の建築制限のように2カ月とか、1年とか、その事業をやっている間というのではなくて、いわゆる災害危険区域ですから、未来永劫建てられないわけです。建築制限をかけることで、そこには非居住者区域にするかわりに、高台のほうの住宅造成の費用を復興庁からもらって、そこで高い造成費をかけて国から補助金をもらうことも含めて、そこで住宅を再建されたり、復興公営住宅を建てて、そこで皆さんがお住まいになるという絵です。それこそ阪神淡路大震災で、区画整理はたった10.5ヘクタールの話ですから、換地で50メートル動くという中でももめているのに、先祖代々の土地にはもう何十、何ヘクタール住めなくします。高台のあの山の上のところを造成して山を削って、山のところの土地を買って、今から住むという高台に移るということに対しては合意形成ができるのですけど、どこでどういう形でお住まいになるのかというのが本当に合意形成できるのだろうかということ不安でした。でも、そもそも論がとても大事で、南三陸町ではスタートの段階で復興計画の絵を描くためのワークショップを行いました。いや、ワークショップといっても、そんなに格好いいものはありません。避難所は町内だけでは済まないので、もっと内陸部のほうの温泉宿とか、登米市とか、その南三陸町から50キロ、100キロ離れてところの体育館とか、旅館も避難所になっています。そこに町長、副町長らと一緒に出かけていって、南三陸町の復興の絵をみんなで描きますという話をして、その共通認識を考えるのです。その中で生み出されたコンセプトというのは、生業の場所はさまざまであっても住まいは高台にということです。あのときいつも町長が語っていたのは、あの大地震は午後2時46分でした。まだ、人間が活動している時間帯ですから高台に避難することもできた。800人ぐらいの方が南三陸町でもお亡くなりになりましたけど、もしあれが午前2時46分やったらどうだったのだろうと。もしも12時間ずれて真っ暗で電柱も地震で倒れているし、状況も何も見えない通信もそれこそ途絶えている。そんな状況で、もし真夜中にきたら、1万7,000人が南三陸町の人口でしたけど、そのうち1万亡くなってもおかしくなかったという話をされていました。そのあたりについては皆さん本当に危機感を感じてられおり、寝ている間に津波が来ても人命が失われないまちづくりをしましょう。だから津波の高さが今回16メートルやったとしたら標高20メートルのところに家があればいいわけです。ですから高いところにまちをつくろうというコンセプトについては、他の被災地の中でも、かなり早い段階でまとまりました。そこから具体的な事業に入っていくわけですが、いろんなパターンの事業があって、防災集団移転整備事業、土地区画整理事業、津波復興拠点整備事業などがあるのですが、その事業ごとに国土交通省や復興庁とやりたりをしながら話を求めていったというのが南三陸町でのまちづくりの流れです。 復興の課題の違いがあると思います。阪神淡路大震災と東日本大震災両方を経験して思ったのは、やはり人口規模が違うというのは本当に大きいことです。左側にあるように、当然地震のタイプや、被災の程度は違うので、違うところは違うのだということだけのことなのですけれど、阪神淡路大震災では、きれいなまちができてしまえば魅力的な阪神間の都市圏ですので、新規流入も含めて人口がふえます。先ほどの西宮の話でいうと、42万人のまちが、48万人のまちになりました。これは復興ですよね。昔より元気になっていますよね。でもやはりその話で考えると、東日本大震災というのは厳しいところがあって住宅の高台移転ということに対して命を守るまちづくりというのはできてきたと思います。生業については、漁業についても復興施策が大体整ってきており、高齢化の進行は日本全国どこでもある話ですし、一定の動き方はあるかなと思いますけど、人口減少についてはほかの被災地よりも、一般の日本全国のところよりも被災地が減っています。敢えて語らないといけないのが、福島の放射能汚染の話というのは、南三陸や気仙沼などで復興の絵を描いていて、まちづくりが進んできてよかったなとか、高台で新しい住宅できてよかったなって言っており、それは明るいのですけれど、福島の話を聞くとなかなか次にいけないなと思ってしまうところはあります。復興まちづくりの課題としては阪神淡路大震災と共通している話もあるわけなのですが、我々はハードな人間なので、なかなかソフトのところにかかわれないのですけれど、仮設住宅から恒久住宅に移られて、恒久住宅の中でやっぱり阪神淡路大震災の復興の住宅の中で孤独死が多いとか、昔からそんなことを言われているじゃないですか。一人暮らしで仮設住宅から公営住宅に移られたひとり暮らしの方にお声がけをする組織が必要だということなどのように、東日本大震災の被災地でも同じような話がどんどん進んでいくので、結局それに対するフォローを何とかしないといけないのですが、なかなか難しいのが現状です。 復興は従前の問題を深刻化させて噴出させます。少子高齢化社会というのは昔から当たり前のこととしてずっと言われていますし、それが震災によって明確化させて、その被災地に対して露わになります。だから復興は社会のトレンドを加速化させるということです。 新たな復興の仕事があって、新たな被災状況があるから、じゃあウルトラCの施策が何か考えられますかというと考えられないですね。結局、昔からやっていた区画整理であるとか、昔からやっていた何々の事業をちょっとアレンジしたものぐらいのものを、結局財務省であるとか、復興庁であるとか、そこから引っ張ってきて事業をやるということになるので、何か大きな災害があったときに、そういう学術的な経験みたいなものがあって、新たな知見みたいなものを組み合わせてこういう事業が考えられるっていう、その知識から得られる、その経験値というか、知識から得られる新しいアイデアがあるとして、それを国が進めようとする事業、県が進めようとする事業、自治体が進めようとする事業等とどうリンクできるのかというのが、実際に現場に入っていた人間が学識経験者とうまくつながれていれば復興事業が早くできたのにという気はします。 復興災害という言葉を神戸大学の塩崎先生が指摘されています。長田がオーバースペックの再開発をしていましたので、今度は神戸市役所などの行政組織が、長田のほうに引っ越しをして、空いている床を埋めという話があるのですが、やり過ぎて大変だというのがなるかなと思います。適正なまちづくりというのは非常に難しいところなのですけど、やり過ぎもあかんよというのは感じるところですね。 福島の誰も住まないエリアの海岸線沿いに防潮堤ができています。当然津波がくるために、それに対して防潮堤でまち防ぐためのものですが、そもそも裏側のまちに誰も人が住んでいません。防潮堤はタダでできませんから、そこの用地買収をするので、地域にお金が入るのです。用地買収をしてもらえるから誰も反対しないのです。だからその防潮堤はできるのですけど、その何十億円を何のためにやっているのだろうというように、復興の費用対効果についてはもっと考えないといけない気がします。 復興で社会的問題を改革することが欠かせない、と室崎先生がおっしゃっていました。同じものをつくる復旧ではなく、復興によって地域活性化できるような、まちおこしできるようなことをやっていこうということがあるかと思います。その中で心のつながりみたいなものを大切にしていかないといけないと思います。 最近では復興都市計画というのをやりながら地域のことにかかわっていかないといけないと思うようになりました。私の子供が魚崎の小学校に通っていました。阪神淡路大震災後も地域コミュニティがしっかりしており、防災福祉コミュニティの活動がしっかりしているところです。実はそこでやっている活動の中で、毎年1月17日に一番近い土曜日に、小学校5年生を対象に防災訓練をするのです。防災訓練の中では、当然煙体験ハウスとか、いわゆる震災の消防署が来て消防車の上に、はしご車の上に乗せてくれるとか、消火器で火を消す訓練をやっているのですが、大きな炊き出しの訓練で、地域の防災コミュニティの方が御飯を炊いたり、カレーを炊き出したり、外で寒い中で炊き出しを食べるのです。何でこんな寒い日に、そういうことをやるのだというのが、その阪神淡路大震災が1月17日にあったからだと、そのときの魚崎はこんな感じやねんという話の語り部を実はやっています。毎年1月10日頃になると私、小学校5年生に対して45分一本授業を任せてもらって、子供たちに阪神淡路大震災のとき、魚崎はこんなことになったんやと、魚崎は実は海にも近いんやと、だから津波来るかもしれへんねんと、東北では津波こんなんやったんやと、だから自分の小学校の上に昇るというのもあるけども、国道2号線より北側に、山のほうに逃げてくれというような話を語り部的に伝えています。この間うれしい話がありまして、その話が小学校5年生の社会科の教科書に載ったのです。 魚崎が元気なのかというと、だんじりなどの地域の活動を昔からやっているからだと思います。だんじりの延長線上で頑張れているのもあると思います。だんじり一つを動かそうと思ったら150人ぐらいの方がかかわっているのです。交通規制も必要だし、押している人、引いている人、当然公民館行って休憩するだけど、そのときにお弁当を段取りしてくれる地域の奥さん方とか、皆さんでこれだけのことを運営していることで初めて成立します。やはり地域コミュニティがしっかりしていることが、災害対応、災害復興にも有効であるなと思うところです。 ß以上で終わりたいと思います。ありがとうございました。

【研究会メンバーとのディスカッション】

委員会メンバー

お話しいただいてありがとうございました。人と自然の博物館の大平と申します。南三陸町の区画整理では都市計画決定の経験ないような職員がたくさんいらっしゃる中で。本当に御苦労されたのだなと思うのですが、復興まちづくりにはどこにでも通用する処方箋はないと指摘されていますが、最も阪神淡路大震災の時の経験が、南三陸町の復興の施策や考え方に生かせたという部分はどういうところなのでしょうか。最後のコミュニティの生かし方なのか、あるいは技術的な線の引き方なのか、そのあたりの具体的なお話をお聞かせください。

発表者

御質問ありがとうございます。阪神淡路大震災でスタートしたまちづくりの中では、比較的早い段階にまちづくり協議会を立ち上げて、そこで皆さんの意見を聞いて、区画整理の区域の中の生活道路の絵を描こうというというように、最初の段階から詳しい話に入っているのですけれど、南三陸で最初からその話ができたかというとできませんでした。どこの高台の山に移るかは、私が南三陸町で働いていた段階では全然わからなかったです。震災から1年半から2年たってやっと高台のほうのある造成地に、何々の集落の方が移るというのが決まりました。何々の集落の方が何々団地に移る高台に、その中で自分がどこの街区の角に住みたいとか、どこに集会場を設けたいとか、コミュニティ施設どうするかとか、まちづくりの中に、その地域住民の声をちゃんと入れるようにしようねというのは、最初の段階からお伝えはできたのですが、私が働いている時にはそこまで実現できていなかったです。どこにでも通用する処方箋はないと言いましたが、同じ処方箋を使うのだけれども、同じタイミングで使えるとは限らないという感じはあるかもしれませんね。 私がいた時代では、現場のこともあったし、宮城県庁や復興庁に向いて話しすることもありました。例えば区画整理ってある土地があって土地削って、新たに公園とか道路をつくるのですが、もとの土地がいるのです。南三陸は役場も消防署も病院も全部の公共施設が被災していますから、その土地の種がないと、高台のほうでまちがつくれないのです。これを何とかしてくれと言うのは結構早い段階で言っていまして、津波復興拠点整備事業の制度が国から実現されました。このように、早い段階で自治体職員が上のほうに突き上げておくということがすごく大事かなと思いました。

委員会メンバー

畑さんは30歳ぐらいのときに阪神淡路大震災の復興をやって、それから16年、17年たって東日本大震災の復興をやってこられました。阪神淡路大震災の復興の時と東日本大震災の時とで復興に関する見え方なり、考え方が違ったのかということと、畑さんが次の応援職員として西宮から南三陸へ行かれる方に対してどのようなアドバイスや心構えをなされたのかお聞かせください。

発表者

年齢の話でいうと、やはり阪神淡路大震災の31歳のときの見え方と、40半ばにのって一つの事業を終わせて、それから南三陸に行ってやったときに見え方や視点は違います。阪神淡路大震災の復興では、例えば1カ月ぐらいの間は現場で倒壊家屋の処理とかしているわけですから、自分で手を動かしていました。後々の都市計画事業の担当になる中で、復興の面整備であるとか、国とのやりとりでるあとか、そういったようなことを学んでいっていたという感覚があるのです。今の南三陸町に関して言えば、ある意味、復興の初期段階をまとめるというすごいミッション背負って派遣されていますから、ある意味では西宮市代表、兵庫県代表なのです。長期派遣の第一期生でしたから、気負いもあったし、逆に気負い以前に南三陸町役場の人と一緒に復興庁と議論するのですが、復興庁のメインの役人さんの目の前に私が座って、そこで交渉するのですが、この交渉が負けたら30億円飛ぶなとかという、そんな現場ですから、逆に、そのためにその地域のこととか、今、こういう合意形成まできているから、この金は絶対につけてもらわないといけないとか、そのようなことを語らないといけない訳です。地域のことをまとめながら全体として引っ張ってくるみたいな責任も負っていたので、その中でのまちづくりであるし、マスコミの対応でもあるし、そういう動きでしたから何か見ている視点が、やっぱり全然違ったなという気はしますね。逆に西宮へ帰ってきたら地元に根差した仕事していて、ガードレール曲がっているから直しましょうという世界なので、それもとても大事なのですが、仕事によって視点が違うものだなという気がします。 西宮市は女川と南三陸町に2〜3人ずつ派遣をしているのですが、今では復興まちづくりの絵が描けていますから、その中での都市計画事業をこなしていく仕事になりますので、まちの職員さんの意見を聞いて、あとは地域の方々とやりとりをしながらという、要は皆さんの意見聞いてやってこいという単純な話です。それと東北を楽しんでこいと、楽しんでその東北を自分の第二のふるさとぐらいに思って、そこが好きになったら絶対にいいまちづくりできるということです。難しいこと、細かいこと言わない、そんな言葉がけになっています。

話題提供③ 石塚直樹 氏 「中越地震の復興経験から東日本大震災の復興へ」

インタビュー調査風景
話題提供③「中越地震の復興経験から東日本大震災の復興へ」石塚直樹氏
御紹介いただきました石塚と申します。どうぞよろしくお願いいたします。 私からは中越地震の復興経験から東日本大震災の復興へということでお題をいただきましたので、その内容についてお話をさせていただきます。私も新潟県の中越地震の復興支援に関わっていたのですけれども、東日本大震災の発生後は、そちらの応援という形で入りまして、今に至っているということで、その二つの震災復興に関わらせていただいているという立場で話題提供させていただきます。 実はきたかみ復興ステーションという岩手県北上市に都市計画学会や都市計画協会の拠点をつくることになり、そこにコーディネーターを置く必要があるという話がありまして、石塚を置いたらどうかという話も出まして。そこに行くかもしれなかったのですが、そこには行かずに、今は宮城で活動させていただいております。 自己紹介ですけれども、今は一般社団法人みやぎ連携復興センターというところで代表をしております。もともとは中越防災安全推進機構復興デザインセンターというところでコーディネーターをしておりました。それ以外にも、みちのく復興地域デザインセンターというものを、つい先々週ぐらいに立ち上げたのですが、いわゆるこの復興の東日本大震災の復興を取りまとめて、その先に生かしていくシンクタンクのような機能が必要だろうということで、人と防災未来センターには全然及ばないのですけども、そういったものも民間から立ち上げようとしています。みやぎボイス連絡協議会では、年に一回、宮城での復興にかかわっている方々計60人ぐらいのディスカッションをするというようなこともやっています。まず、今の宮城の活動からお話させていただきます。  ビジョンとしては、復興を契機に切り拓く、被災地を中心とした創造的で自立的な住民主体の地域社会をつくろうということを目指して活動しています。住民主体の地域社会をつくる地域住民と住民組織をターゲットとしています。いまは震災復興だからというものありますが、支援者・支援組織、この中にはNPOや、社会福祉協議会や行政・企業なども含まれますけれども、この2つの方々を主にターゲットとして捉えているという状況です。この震災復興に取り組む2つの担い手の共通課題として、私たちとしては、その担い手の力量と担い手同士の関係性が不足している、もっと力量がついていく、もっと関係性が豊かになっていけばよりよい復興が進むのではないかという仮説のもとで活動しています。そのために、担い手の力量形成を目指した研修、ハンズオン支援、担い手としての関係性の構築を目指したマッチング、連携促進と情報発信ということを実施しているのがみやぎ連携復興センターです。2011年から活動してきまして、2015年ぐらいから移転が一部進み出して、地域の人たちが何かそこで自治会をつくるとか、活動が始まるというところから、いわゆる地域住民や地域組織の方々へのアプローチというのを始めさせていただいているという状況です。こういった事業の全てではないのですが、行政からの業務委託、企業からの寄附金、こちらから提案を行い、実施事業をするなど、全て単年度で事業を率先しながら何とかやっているというのが、いまのセンターの状況です。 今年度の事業として15本ぐらいの柱を動かしています。いわゆる民間の支援団体とか、企業とかと一緒に事業をこれまでやってきたのですが、今の段階の特徴としては、そういう事業がどんどん終わっているようなものが大分多いというような状況が、私たちの組織だけを見るとあるということです。とはいえ、今後も様々なニーズや必要性はまだまだ続きますので、そうしたものをどのように実施していくかということが、今の課題としてはあります。 いくつか取り組みの紹介をさせていただきたいのですが、私たちの活動2本柱のうちでの一つである、担い手の力量形成の支援の事例を紹介します。いわゆる地域住民・住民組織に対しての支援ということですが、自治会のリーダーへの支援です。自治組織のリーダーの方々向けの力量形成やノウハウ共有を目指した研修プログラムというものを実施させていただいています。外から学ぶプログラムもあれば、中での課題やノウハウを共有して力づけをし合うというようなことを実施している状況です。 もう一つは、支援者向けの企画になりますが、要は東日本大震災の復興の被災地はかなり外部による支援団体の配慮があって、地元の方々がNPO立ち上げたり、震災を機に立ち上がった組織というのが非常に多くあって、ただ復興財源は大体10年と見られているため、それ以降も必要な機能を果たしていくためにはどうしたらいいかという相談が最近非常に多くて、そういったものを実際にコンサルタントの方と一緒に事業計画や戦略のサポートをさせていただいています。 担い手同士の関係性の構築の事業の事例ですけれども、左側は地域の方々、住民組織の関係性をどう構築するかということですが、これは、今年度実施をしたものですけれども、「みやぎ地域づくり自慢大会」というものを実施しています。沿岸部のまちづくり協議会、いわゆる復興を機に立ち上がったまちづくり協議会と、もともと震災前から活動している協議会があって、内陸部には平時の地域づくりをしている協議会があり、なかなかそういった方々のノウハウや学びが共有されていかないという状況があったで、そういった双方の学びを共有するような機会づくりというのを、新しい事業として今年から始めている状況です。 支援者向けへの企画として、岩手、宮城、福島で活動するNPO、企業、社会福祉協議会、大学など多様の主体を巻き込んで、復興の振り返りや、今後どうあるべきなのかということをディスカッションするということを、今年度に復興庁と一緒に実施しています。東北もまさに今、検証どうするかとか、振り返りどうするというような時期に入ってきておりますので、そういったものの足がかりにしようということで実施しています。このような企画を通して関係性の構築を図ろうとしています。 みやぎ連携復興センター自体も震災を機に東日本大震災を機に立ち上った組織ですが、震災から10年以降も継続していこうということで、いま方針をつくっているという段階です。震災復興、地域復興だけではなく、震災を機に平時の地域づくりや、被災地と非被災地またがる領域のコーディネートに移行することへの準備を進めています。例えば、コミュニティ形成、NPOのコンサルティング、災害対応などです。最近、宮城県で多く話題になるのですが、県の防災訓練をやっても、震災以降、結局何も変わってないじゃないかということを言われてしまいます。そこに、NPOなどの多様な担い手が参画するような仕組みをつくるようなことを、様々な立場の方々とディスカッションしながら進めている状態です。新規拡大事業としては、あと残り2年のところではありますけれども、復興の主にソフト分野の振りかえり・検証に関するコーディネートを、先ほどつくった新組織などとも一緒に行っていっています。今は復興に注力する組織体制になっているのですが、そこも更新をしていくというような方針になっています。 自己紹介年表というのをつくりましたのでご覧いただきたいと思います。2004年中越地震が発災し、そのとき私は24歳でした。その前年に中越地震の被災地にある長岡造形大学を卒業しています。建築・環境デザイン学科に在籍していたので、いわゆる都市計画はあまりやっていなかったのですが、ランドスケープデザインや空間デザインをやっていたので、その方面に就職をして、2年ぐらい東京で働いていたのですが、2年目に、東日本大震災が発生したという状況です。それとはあまり関係ないかもしれないのですが、同じ時期に長岡造形大学の学科助手を募集するので、新潟で何かやりたいのだったらやってみるかという話をいただきまして、それを受けたら受かりまして、結局2年後に長岡に帰ってきました。帰ってきたときがちょうど中越地震の一冬を超えて翌年の春だったので、いわゆる復旧・復興がこれから進むぞというときに長岡にまた再び訪れまして、そのときに兵庫県立大学の澤田先生や平井先生などが復興支援センターをつくるぞということをおっしゃっていまして、お前も関われということで、関わらせていただいたのがきっかけになっています。そこから3年ぐらいは、長岡造形大学の立場で、ボランティアしたり、いろんな地域のイベントのサポートをしたり、ときには復興ビジョンや復興計画づくりのサポートというのを教員や大学と一緒に行ってきました。2008年に復興デザインセンターをつくるという話になって、これはいわゆる中越復興市民会議という稲垣文彦さんたちがつくった、現地をサポートするボランティア組織みたいなものがあったのですが、そこと中越防災安全推進機構とが一緒になって復興を進めていくという形になり、そこに入るということになり、2008年から復興デザインセンターの所属になっています。その後、2015年までは中越防災安全推進機構に所属していましたが、東日本大震災が発生後は、いろいろと東北のほうから視察が来たり、問い合わせが来たりとか、こっちに来ていろいろと教えてほしいというようなお話が来ることが多くあって、そこでは私が結構対応することが多かったです。中越での復興支援制度を、東日本震災の復興にも活用して新たに創設したいという話があって、その初期の事業の立ち上げをサポートしてほしいということで、2012年に宮城に移ったという形になっております。宮城に移ってからは毎年役職が変わっているのは、求められる役割も大分多様だったかなと思っております。中越では専任としてかかわったのは4年半ぐらいで、東日本大震災ではもう7年ぐらいになるので、そちらのほうが大分長くなっているというような状況です。 中越の震災復興の場合は中山間地域で災害が起きて、震災の影響で人口減少が進んで急激な担い手減や、地域の存続という課題に対して、震災をばねとしたよりよい中山間地域を目指そうという中越地震からの復興の命題を受けて、私も中越防災安全推進機構のコーディネーターとして事業を担当させていただきました。その中でも一番割合が多かったのが、復興支援のサポートや、研修機会の提供というのが多かったわけですけれども、それ以外にも地域外人材です。ボランティアとか、支援のコーディネートだとか、集落の活動の発表の交流の場づくりです。後半になってきますと、伝承施設の「きおくみらい」です。企画や記録誌をつくるということに関わらせていただきました。東日本大震災以降すごく増えたのが視察研修のコーディネートです。 復興支援員の活動内容は市町村の意向や、地域の状況によって多少異なるのですが、中越の復興支援の場合は、集落単位をベースにした総合的な集落活動支援というのが基本です。それ以外に集落間のネットワークづくり、観光、農産物、福祉などのテーマはあるのですが、それらを集中してやるよりは、まずはその集落活動の支援ということを行っていたという形になっています。復興基金から助成をされて各市町村の財団法人などに助成が出るわけですが、そこの組織が各支援センターを設置して、そこに復興支援員が張りつかれるという体制になっています。復興支援員に対してのいろんなサポートやバックアップを復興デザインセンターで担当させていただいたという形になっています。 東日本大震災の復興支援員制度は総務省が立ち上げているということもあって、地域おこし協力隊や中越の復興支援員をモデルに創設をされています。東日本大震災後に復興支援員制度をつくりたいという話があって、そのような相談や対応を行っていました。当時は地域外から来ている人材、特にボランティアの形で、東北に様々な人材が来ていたのですが、その方々の力を生かしたいといっても、なかなか生かす制度がなかったわけです。緊急雇用制度などはあったのですが、基本的にはそこに住民票もって住まれている方々向けだったのです。復興支援員制度は外から来ている方々でも地元の方々でもなれるという、その当時は特殊な制度でしたが、この制度ができたことによって地域の担い手の活動継続につながったのではないかと思っています。 その背景として、一つは東日本大震災復興構想会議の提言の中にも復興支援などの仕組みについて積極的に支援をするということが書かれていますし、その後の復興対策本部の方針の中でも復興支援の配置、及びまちづくりに関する各種専門職の被災地への派遣や人材の確保・データベース化を進めると記載されており、こういったことを受けてかと思いますが、総務省や宮城県からも中越防災安全推進機構に相談があり、稲垣さんを中心に私もサポートをしながら、そういった仕組み化に向けた取り組みをしてきたという形です。 宮城県における当初の復興支援の枠組みですが、先ほどの中越地震の形とほぼ同じで、総務省から宮城県に落ちてきて、そこから市町村に落ちていきます。復興支援員制度全般のサポートをする組織が必要だろうということで、サポート機関を立ち上げようという話になりました。この点は中越地震をモデルにできたと思っています。そこの立ち上げをフォローしてほしいということで、2012年の10月から私が出向して、結果的に今までに至っています。当初は半年契約で、半年で何とか立ち上げて帰ろうと思っていたのですが、全然帰れなくて、今に至るというような状況です。復興支援員への活動推進業務として、中越地震とのかかわりの中のものを挙げさせていただきます。復興支援員の研修機関の提供として、復興支援員として取り組んできた方や、中越地震での復興支援員の経験者などをお呼びしてノウハウ共有をするみたいなことをやってきています。復興支援員に関わる行政職員や団体の職員担当者の意見交換の場づくりも行っています。いきなりそのような制度が降ってきて、みんなでやろうという話になってきているのですが、実際どうやっていいかわからないということがありましたので、そういったところに中越の人たちに来てもらいながら、サポートしてもらっています。 3県の復興支援の合同研修会を総務省と一緒に取り組んだのですが、東日本大震災は岩手、宮城、福島と大きく3県にまたがっているので、県をまたがって担い手の共有を行っていますし、中越地震の被災地に行って学びたいという相談をいただき、何回も企画をして実施をしてきています。 宮城県の復興支援事業に限った話ですが、中越地震の復興経験が生かされたかという点ですが、結論は五分五分かなと思っています。生かされた部分と、そうではない部分というのがあるかなと。もしかすると生かされたのだけれど、うまくいかなかったみたいなこともあるのではないかと思っています。生かされた部分としては、いわゆる復興支援員制度が導入できたということは非常に大きいと思っています。それまでの蓄積、知見がちゃんと整理されていて、参照されるような状況になっていたことで、復興構想会議などでも言及がされ、制度を導入する流れができたのかなとは思っています。 私が中越地震で復興支援のサポートの経験をし、宮城に移ってからも、そのような企画を行う立場になったわけですけれども、ある程度そういった経験に基づく手法を活用したプログラムが提供できたかと思っています。 一つ大きいのは、やはり中越地震や東日本大震災の被災地で活動する人的ネットワークをつくれたかなと思っています。私も中越地震では別に全てを投下する立場でもなく、一コーディネーターでしたので、それ以外の周りの方々、いろいろ担ってきた方々と、東日本大震災でいろいろ活動されている方々のネットワークを形成するということは、ある程度初期の段階ではかなり有効な手段としてできたのではないかなとは思っています。もう一つは私が全てをやっても仕方がないので、現地スタッフとともに動くということを意識しながらやってきました。今ではそのようなことを自分たちで企画できるメンバーが大分育ってきていますので、サポート化の人材の確保だとか、育成というのは一定程度できたのではないかなと思っています。 一方で、生かされなかった部分だと反省点ですが、これは上げると切りがないのですが、制度の運用としては、対象の規模に合わせたサポートセンターを構築できなかったなと思っています。中越地震の被災地は石巻市ぐらいの大きさだったのですが、同じような絵を描いてしまったというところが、私としては反省点です。絵を描いたのは私ではないんですけれども、そのあたりの規模に合わせた構築、体制の構築みたいなものというのというのはできなかったのは反省点です。 もう一つは、中越地震の復興支援員と東日本大震災の復興支援員、名前こそ同じですが、中身は結構違っています。産業支援や被災者の見守り支援への対応は弱くなってしまったのかなというところは、ある程度の課題としているところです。 それがなぜかということですが、まず一つは、私自身の力量だとか、経験が不足していたというのがあります。これは裏を返せば個人に頼り過ぎたというところもあるかと思います。私が出向していたので、基本的には意識決定は先方のみやぎ連携復興センターの中にあって、その中でいろんな人をつないだりしていました。私が決定をしていくということもあるのですが、今思えば、そういった一人の出向というよりは、チームでサポートする団体戦のような形を構築するべきだったかなと思っています。 あと時間軸でいうと、このような何かを前例を生かすというときには、かなり早回しになる傾向がある気がするのですが、この復興支援員制度に関しても、制度導入がかなり前倒しをされたところがあるかと思っています。中越地震の場合は、仮設住宅の入居時から制度が入ってきたのですが、それが有効だという話になると、今から入れてしまえ、みたいな話になって、それが本当によかったのかどうか、その両側面があるかなと思っています。 先ほどの空間の話でいうと、広さを考慮しきれていなかったというところがあって、この後の制度設計の詳細部分や更新には携われなかったというところがあるのですが、方針の部分がすごく大事かなと思っています。制度を早目につくるのはいいのですが、それが現場に合わせてどんどんニーズに合わせて変えていけるかどうかというと、今回はあまり変えられなかったのです。なので、どんどん前倒しをして、外から事例をもってきて、復興支援員制度が立ち上がったわけですけが、それをもっと現場がどんどん変わっていく状況に対して、サポート側も制度をどんどん変えようということで私たちもいろいろ提案をしてきたのですが、それが枠組み以上に変えられなかったというところは非常に難しかったと感じているところです。やはり背景には財源です。今回は国がお金を出していますので、最終的には国が決定します。宮城県も国の判断を仰がないとなかなか判断できないというような、中央に集まった集権型の財源構成になっていったところもありますので、そのあたりが大分影響して、なかなか更新ができなかったかなと思います。 最後生かしたからうまくいくというのもあったと思っています。私は中越地震にかかわって4年ぐらいでぽんと出されたのですが、なかなかそこでは立ち回りがし切れなかったかなというところがありました。自分の経験に基づいてやってみるのですが、もっとこれは現場で考えてやるべきことだったなということの反省は非常にありました。その経験を生かすことよりも、宮城県で考えながらやるということに切り替えていました。 復興支援員制度に関わらず、中越地震と東日本大震災の両方の復興に関わらせていただいて、それを振り返りってみると、一つは両地域のネットワークハブとしては一定程度機能したのではないかなと思っています。復興支援だけではなく、その後いろんな問題が出てくるわけです。移住定住が必要なのではないか、震災伝承やメモリアルをどうするといったときに、いろんな関係性があれば、相談が来て、それでつなぐことができます。キーマン同士がつながれば、その後に関わらなくてもいろいろ進むことは多々あったかと思っています。関係性を押し広げるために、被災地間、双方のオープンイノベーションを促すということはある程度できたのではないかと思っています。 2点目として、やはり考えるプロセスに向き合うことが大事だったかなと思っています。経験がときとして必要なプロセスをスキップしてしまうような懸念があるかと思っています。この制度と、この仕組みをこのまま持ってくると何とかなるだろう、みたいな。でも何とかならないことが多かったと思っています。ただし、そのような事業などを方向にして、まずは考えながら、一緒に寄り添いながら考えるプロセスをつくるということが必要かなと思っています。 3つ目として、経験を継承する役割になった際の自分自身の立場の変化です。私は中越地では一コーディネーターだったのですが、東日本大震災に行けば私のチームメイトが何人かいて、それをまとめたりすることや、マネジメントをしなければならないのですが、その経験が自分にはあまりなかったです。自分もコーディネーターでいたいという思いもありましたし、そういうことをあまりできなかのですが、そこのマインドセットを要するのに一年ぐらい時間がかかったのかもしれませんね。そのあたりは自分の中での難しさとしてあるかなと思いますが、こういう経験を伝承する立場の方々にとっては、もしかした共通の課題かもしれません。 4つ目として、近くの他人より遠くの親戚です。私は中越地震をいろいろと見てきてから、宮城に行ってそこから話すことよりも、中越地震でいま活動している方が話すこととでは重みが全然違うわけです。私は近くにはいるわけですが、いま現地で活動している方や当初からやっている方の言葉の重みというのは、私がここにすぐ話が聞けるからといって、私が話をしても全く同じことにならないということがありました。それを理解してからは、様々な方々をつなぐことを集中的に注力したと思っています。 最後に、同じ言葉でも意味が異なっている状況をどう克服するかということです。いまだに悩んでいるのですが、復興支援員や中間支援組織やとよく言われますが、それを指すことが、地域の背景や文化的背景の違いによって異なるということを感じています。こうありたいけど、なかなかこうなれないというようなことを感じながらやりつつだったのですが、それぞれの言葉のもつ意味というのを、そこの主体の方々で議論しながら、共有しながらやっていくということが非常に大事かなと思っています。 以上です。ありがとうございました。

【研究会メンバーとのディスカッション】

委員会メンバー

石塚さん御発表ありがとうございました。研究会メンバーから、質問あるいはコメントありましたお願いいたします。まずは司会者から。お話伺っている中で、中越の復興支援員の制度と東日本の復興支援員制度のあり方を比較して、現場レベルの違いがあれば教えてください。中越地震の場合は、復興支援員の方が支援者として関与してまちづくりがうまく実現したという話は結構聞くのですが、東日本大震災の場合はそのようような話があまり聞かれないように思います。

発表者

一つは、東日本大震災の被災地では支援者がそんなにいなかったと思うのです。中越地震のように、ある意味復興支援員が復興支援を一手に担ってやっていたというところが見えていないところがあるのかもしれないです。東日本大震災は既にいろんなNPO・NGOが地元にあり、震災直後から来ていて、そのような方々がいろんな財源を活用しながら活動しているという状況があったので、復興支援員は地域のマネジャーというよりは、その中の行政が指定した役割を実施するような立場にとどまっているということがあるかなと思っています。  もう一つは、東日本大震災の復興支援員は復興支援センターをつくって、その地域のことを何でもやりますというのではなく、現地のNPOだとか、行政の一員として関わっています。正直、自分は復興支援員だと思っていない復興支援員も結構います。一つの財源として扱われている側面がすごく大きくて、その違いの良し悪しはあると思います。

委員会メンバー

お話ありがとうございます。人と防災未来センターの木作です。お三方のお話を聞いて、規模感という共通点があったなと思っています。対象の規模感に合わせたサポートセンターの構築ということが述べられましたが、中越地震では割とうまくできたという印象を受けましたが、東日本大震災で規模感がうまくいかなかったとすれば、規模感はどういう指標で見積もったらよかったでしょうか。

発表者

畑さんは30歳ぐらいのときに阪神淡路大震災の復興をやって、それから16年、17年たって東日本大震災の復興をやってこられました。阪神淡路大震災の復興の時と東日本大震災の時とで復興に関する見え方なり、考え方が違ったのかということと、畑さんが次の応援職員として西宮から南三陸へ行かれる方に対してどのようなアドバイスや心構えをなされたのかお聞かせください。

発表者メンバー

東日本大震災の場合は、いわゆる旧市町村単位でセンターをつくって復興支援員を入れています。北上地区や雄勝地区など、適切な規模感でうまくいっていたような気がします。一方で、一市町で一つというところは、ちょっと広過ぎるかなというところも感じるところもありました。ただ、それをどのような体制で何をするか次第でもあるのですが、そのあたりが本来であれば市町村というよりはもう少し小さい地区単位ぐらいので設置ができるといいのではないかと個人的には思います。  あと、サポートセンター自体も県で一つとどうしても考えがちなのですが、ここを分散させた方がよかったと思っています。例えば石巻圏域といわれるような、石巻周辺の市町村で一つ、南三陸と気仙沼で一つなどにすれば、よりきめ細やかなサポートができたと感じています。

全体討論

会場

難波と申します。きょうのお話の中で畑さんから、被災した行政職員の場合、家族の話があって、地域の話があって、職場で、非常に過酷な労働をするわけなのですが、畑さんの経験や周りの中で、その辺の切り分けをどのように考えておられますか。

発表者

家族のこととなりますと、阪神淡路大震災のあとは飛び出ていますから、家もほったらかしにしましたし、まだ子供が生まれていなかったので、阪神淡路大震災のあとは妻を一人にしていましたけれど、家族のことは全然認識していなかった、本当に仕事のことしか考えてなかったです。東日本大震災の話で家族の話をすると、単身赴任です。子供がまだ小さく、かわいい盛りじゃないですか。休みの日に遊んでやりたいのですが、単身赴任していいます。有り難かったのは、毎月業務報告という形で飛行機代出してもらいました。南三陸で単身赴任しているのですが、毎月一回、西宮市役所に業務報告をするために帰って来なさいっていう職務命令がありました。当然職場に帰って、南三陸でこんな仕事をしていると報告をするのですが、それは結局、月に一回家族のもとに帰ってきてあげてくださいねということです。だから金曜日に家に帰って、業務報告をして、金曜日の晩は職場の連中と飲んだりして、それで土日は家にいて、月曜日の朝一番の便で南三陸に帰るというような形で、家族とのつながりみたいなものが単身赴任中に毎月あったので、そこは助かりました。  あと先ほど紹介したとおり地域のことはとても大事と思っています。阪神淡路大震災のあとは仕事のことばかりを考えていましたが、逆に仕事をしている中では地域のつながりや自治会組織が大事だとか、もっと若い人の意見が必要だとか、地域の方同士のコミュニティを濃くしてほしいということを仕事上考えていましたが、自分自身が地域のことを全然していなかったわけです。当時は、PTAの役員でもなく、地域に住んでいるだけです。おやじの会が魚崎小学校にできました。魚崎小学校は各クラス6クラスぐらいまであり、1,000人ぐらいの児童数がいる神戸市で一番児童数の多い小学校なのですが、学校行事で何かをするときに、PTAだけではなく地域のお父さんたちが関わっていく組織ができ、その活動に関わるようになりました。その流れの中で、毎年の語り部の講演なども行っています。あるときその語り部の会で、私の5年生の子供の前で語ることがありました。地域とのかかわりと、家族というのをだんだんつなげていくというのが見えてくると、おもしろくなってくるのかなと思います。

会場

災害が起こった時の優先順位として、行政の仕事で、それで地域や家族みたいな、そういう位置づけでいいですか。

発表者

そのときによるでしょうね。子供がいるかいないかで変わる気がしますし、そのときの仕事の局面によるのかなという気がするので、それは定義づけできないと思います。当然、家族が大事だと言いたいですが、そんなことを言っていられない場面もあるかと思いますけどね。でも、そのようなことをフォローする組織であってほしいなと思います。毎月業務報告をするために交通費出すから月一回帰って来いっていう制度をつくってくれるのは有り難いですね。

会場

龍谷大学政策学部の杉山と申します。住民の方との合意形成の部分の難しさに関してですが、畑さんの発表の中で、どこにでも通用する処方箋はないということを指摘されていましたが、合意形成とかの部分でもそのことは通用するのかなと思いました。合意形成していく中での難しさを教えてもらいたいです。  また、災害前のまちづくりと、災害後の復興の計画とでは、まちづくりに対する住民の人の参加意識は異なるのでしょうか。

発表者

合意形成にはいろんな局面があると思います。ワークショップをやったり、話し合いを行ったり、あるいは一対一でやる場合もあります。重要なのは住民の方に適切に情報を伝えて、住民の方が判断できる情報をどう伝えるのかというのがとても重要だなと思います。あとはファシリテーターの腕がとても重要だと思います。あんまり引っ張ってはいけないですし、うまく引き出すようなことがプロフェッショナルとしては重要だと思います。 大きな災害を起きると、市町村の職員は大変なのです。自分も被災して、家族も被災して、復旧・復興もやらなくてはならなくて、すごく大変で疲弊して、精神的にも参って、本当にしんどくなる人もいるのですが、そこをどうフォローするかというのはとても大きな課題だなと思っており、それは公益的な形で応援体制を組んでいかないとだめだと思います。 中越地震のときは県庁が被災していなかったので、県の職員を派遣しながら、これは人事側と大分交渉していましたが、市町村に派遣して市町村の職員のかわりにいろんな活動をしてもらったりしたことがとても有効でした。ただ、結構人事課にはいろいろなこと言われたのですが、職員はとても張りきるのです。現場で物すごい局面になっているのに触れると、気合いが入って職員自身が成長してくることがあって、そういう助け合いの構造みたいなのは、あらかじめ公益的な助け合いみたいなのをつくっていくといいのではないかと思いました。  それから合意形成を経験した後と、前でどう変わるかというのはかなり大きいと思います。中越地震の例でいうと、仮設だけで3年ぐらい暮らしています。3年ぐらい暮らしながら毎日いろいろな議論をする中で、住民の皆さんが成長していくプロセスがあります。例えば、前任者の長島さんから、うちの村の住民は集合住宅に住んだ経験がないので、公営住宅を全部一戸建てにしてくれという話を受けたのですが、住民の皆さんといろいろ話していく中で、3年間みんなで助け合って暮らしたら一緒に暮らすのもいいねという話になってきて、結果的に連棟とか、4戸1とか、3戸1が増えたのです。それは、おそらくみんなで助け合って住みましょうというように、住民の皆さんで成長してきたということと、あとプロセスを通じて起業であるとか、そういうのに目覚めていきます。ある種、危機がないとずっとそのままみんなで仲よく落ちていくという構造があるわけです。やはり中山間地域の構造なんかは、だんだん過疎化していく、高齢化していく、しかしこのままだと自分たちの村がなくなるという危機感が、ある種の場面で、そこから新しい交流型ビジネスをしたりしようとか、直売所をやってみましょうかとか、やってみると外の方との交流は面白いねという話になって、そういうプロセスみたいなものが、災害というのはすごく大変なことなのだけれど、場合によってはうまくばねとして、危機をばねとして使うチャンスになるのではじないかと思いました。ただ、それをうまく生かすか、生かさないかは、それぞれの場所とか、人とかでかなり違います。実は中越でもうまくいったところと、うまくいっていない地域がたくさんあって、それは玉石混交なのです。そこに来ている人の力みたいなのがあるなという気がしています。

発表者

合意形成には待つ時間がほしいですね。どうしてもコーディネーターやリードしようとする立場、組織の立場側では、勝手に先に絵を描いているのですよ。それに乗ってほしいみたいな、そんな感覚はあるのかもしれないけれども、それを先に伝えてしまって、何でこういうふうにならないのかと思ってしまうとダメになります。コーディネーターのところがやっぱり大事なところであるヒントを出して、そこから先は皆さんに考えていただいて、その答えがいい方向と悪い方向とあるかもしれないけど、その答えが出るのを待つということで皆さんの気持ちが醸成されます。醸成される時間を共有するというか、待つことってすごく大事なことだと思いました。阪神淡路大震災後のまちづくり協議会の話を紹介しましたが、その当時は結構待つ時間がありました。行政職員は早く考えて、予算をつくって、建設庁に何億円を申請しなければ、金がつかないと思っているわけです。それは地元がまちづくりの提案をしてくれないと具体的な絵が描けないので、具体的な絵を描く前に先に絵を描いて出してみようといや、そんなしたらあかんとか言って、そんな自分の中で空回りしながらも議論していました。やっぱり待つ時間ってすごく大事でした。待つことができたので、皆さんで考える生活道路の線形が考えられたというのがあったのかもしれません。  あと震災、災害前と災害後ということについては、何に対する合意形成かということはあると思うのですが、やはり何か物事が起こった後のほうが、火事場のばか力で何かのことに対して集中して皆さんの考える力になるのだろうなと思います。例えば防犯対策とか、交通安全対策とか、いわゆる平常時のまちづくりの中の合意形成って多々あるかと思うのですが、やはり危機意識というか、お尻に火がついている部分というのは、災害後というのは違いますので、その中のまとまりぐあいというのは気持ちの持ちようが違うのかなと思いました。

発表者

私がかかわる合意形成は、どちらかというとハードというよりは、ハード整備ができた後に、その後の自治会やコミュニティをどうするみたいなことの合意形成がかかわることが多いです。  まず一つは、そのようなところは行政が主導して、そこで私たちもお手伝いしてやるということなのですが、政側のはら積もりが決まらない難しさがあるかなと思います。そこをどうしたいのか、どういう線引きにしたいのかですとか、そこをまず一つサポートすることが大事かなと思ってやってきています。例えば、大学の研究者や実務者の方ですと、一緒に行政の方をサポートしながら、選択肢を示してあげるということによって、行政の方が動きやすくなるというところがあるのではないかと思っています。  もう一つは、地域の方々と、どのように合意形成を図るのかということの難しさとして、やはり先ほどの畑さんおっしゃったことがすごく大事かなと思っています。とはいえ、私が関わってくるところでは、やはり急いで進めなければならないという状況がどうしてもできてしまうので、急いで自治会を立ち上げ、コミュニティを形成しようとして、それは一旦形になるかもしれないけど、その先どうなるかわからないという危険がすごく大きいです。実際、東日本大震災では3日でできた自治会が、もう一回自治会が解散したことや、自治会を2つに分けたいという話も出てきたりする状況があります。ただ、それぞれの立場での理屈や事例があると思いますので、それは調整していくことや、関係者間の合意形成を図ることが結構大事なのかなと思っています。  神戸の野崎さんと相談をしているのですが、野崎さんから教えられて大分すっとなったことがあるのですが、復興はコントロールマイスターという話をされていて、要はどこの、どう妥協点をたどるかだという話で、合意形成って何から何まで全部始まってというかみんな同じ方向を向いてないといけないという話なのですが、妥協という話にすれば、ある程度納得しながらも同じ方向を決定していくということかなと思い、東日本大震災では合意形成という言葉自体がどうなのかという議論も出てきていますし、その点についてはまだまだ議論の余地があると思っています。  2点目の震災前後の住民の参加意識の変化ですが、私は震災後から特に関わっていたので、震災前がどうだったのか正直わからないところが現状なのですが、その中で2点ぐらいお話をしますと、一つは、支援者が入ってきて住みついているのですが、支援者なので震災前は住民じゃなかった方々が、そこの地区の住民になって、いろいろな地域の住民として地域生活をしているという例が非常に多くて、そういった担い手は震災後に、担い手となっていただいている方が多いと思っています。  もう一つは住民の参加意識です。東日本大震災の復興の場合は、どうしても移転が発生しますので、移転をしたところで何か役員を決めるとか、みんなで何か選出しようとしても、みんな様子を見るのです。誰も知らないので、周りは知らない人ばっかりで、本当はできると思っていても、それを言える環境にないということだったことがあります。あとは、移転先で自治会長になったという話をされたのですが、それはすごいことで、これまでは見向きもされなかった方が地道にまちづくりに参画しようとしてきて、ようやくそのようなポジションになったという話をされている方もいました。そのような意識の問題と、環境の問題、意識がきちんと働くように周りが働くような環境をつくることで両方が一致するのではないかと思います。

委員会アドバイザー

私が一番印象に残っているのは、渡辺さんが最後におっしゃっていた震災は大変だったけどよかったかもしれないというのはとても印象的でした。つまり本当に震災は大変だったけれども、それをきっかけに頑張ったことが今の持続可能性につながっていることは大きいと思ったのです。阪神淡路大震災でも多分、一緒だったというところがあります。じわじわと多分、マンションにどんどんかわっていくというところだとか、一気に動いたことと、潜在化していった高齢化の問題とかが一気に出てきたという点で、とても大変だったのですが、それを直面させられるということも、やっぱりよかったのかなという気も長い目で見ていたらあるのですね。そのため、都市や山間地域で抱えているそこでの問題は意見が吹き出してくるという怖さはあるけれども、それを直視して考えていくということが、施策、復旧ではなく、復興の一番重要なところなのだろうなと思います。今回、若い人たちと震災の話をしていても、ほぼ会話が成立しないということがわかったので、やっぱりこういういろんな時代を通じて、今の地域課題、今の課題というもの中で、普通に地域づくりをするということの延長線上に災害がある。復興があるというような進め方ということを、今後考えていかなきゃいけないなと感じました。

発表者

地域社会ってなかなか変わらないのですよね。なかなか変えたくないという人もたくさんいて、本当に大きな災害というのは、そういう意味ではとても大変なのだけれども、復旧・復興というのは粛々とやらなくてはならないのだけれども、逆に、ある種の浄化作用のチャンスになるので、そこをうまくつかんで地域の構図を描いていくというのは、そこのリーダーとか、そういう人たちは考えられるといいのではないかと思います。  長年、地域おこしやまちおこしをやっていますと、大体地域を牛耳っている人って変えたくないのです。そこを変えていかないと新しい青空が生まれてこないのです。災害はとても大変なのですが、ある種の契機にしていただけるといいんじゃないかなと思いました。

【講評】

インタビュー調査風景
▲講評 紅谷昇平氏

最後に一言だけ、本日はお休みの日にもかかわらず多くの方に来ていただきましてどうもありがとうございました。学生の若い方から、ベテランの方まで、年代のバランスが取れた幅広い年代まで来ていただきました。講師としてお話いただいていた渡辺さんは、まさに復興のトップとして動かれた方ですし、畑さんは若手のころから、そして中堅では南三陸町で頑張られておられました。石塚さんは、多分行政だと若手なのですけれど、NPOの世界では本当にミッション背負わされて、悪戦苦闘しながら頑張られているということで、すごく世代のバランスもとれたお話が聞けて非常にいい会議だったと感じております。本当にありがとうございました。 私は大学に所属していますが、阪神淡路大震災から25年たつとちょうど阪神淡路大震災世代と呼ばれる越山先生や澤田先生などはちょうど阪神淡路大震災のときの室崎先生や小林郁雄さんのちょっと下の世代ぐらいですね。当時、河田先生も、大体それぐらいですし、林春男先生阪神淡路大震災当時は40代前半です。我々の世代としては、あのころの室崎先生や林春男先生と同等に今やっているのかどうかというのは正直目標といいますか、考えながらやっているところはあります。ちょうどこの委員会の名前が復興の継承と知識の継承というのを挙げていまして、この中間報告会のどの知識を伝えていくかということが大きなポイントだったのですけれども、きょうお三方の話を聞いてみますと、渡辺さんが仮設で店舗営業する際にとりあえず先に営業させてから後で報告するとか、畑さんのこれで何十億変わるとか、石塚さんも本当に中越の看板背負っていってやっているという話を聞くと、知識伝えていくためには、実は知識ではないのではないかと、むしろその覚悟や姿勢などを伝えており、そういう点を生で聞く機会というのが、すごく意味があるのではないかということを改めて感じまして、本当に貴重な機会になったと思います。 もう一つは、おそらく復興の知識とか、教訓を知っているだけではだめで、行政の人事ローテーションの中で、計画的に広い視点で考えなければならないということです。例えば、南海トラフ地震が起こったら技術系のエースとして、この人間を立てて、それには財務とか、こういうもの経験させておく必要があるとか、行政の中の人事ローテーションとか、URに出向させるとかなどのように、何かもっと広い視点で南海トラフの復興になるようなリーダーを育てていくというようなことも必要なんじゃないかなということも考えさせられました。 本当にありがとうございました。